★★★相州乱波の勝手放談 ★★★
#19 江戸軍学はそこまで目の仇にされねばならないのか?
 




城の話をかじっていると、例えば「平山城」とか「横矢懸かり」とか
城郭専門用語の類が否応無く耳に入ってくる。こうした単語は大半が
軍学と呼ばれる、過去の軍事理論上で考案されたものだ。
城の分類とか、構造上の特長とかを体系化し、必要に応じた用例を
創意工夫して用語にしている。軍学はそれを踏まえた上で
例えば戦の攻め方はこうすべきとか、守り手はこのようにするとか
用兵・戦法や築城理論を考案して“武士の教養”としたものなのだが…。

戦国時代、こうした軍学(というか、この時点ではまだ体系化されていない)は
軍師・軍配士・陣馬奉行と言った作戦参謀部将が過去の戦例や
実戦体験を元に練り上げ、それをその時の実戦に投入する状況であった。
つまり「理論」とか「用法」として学問にするというよりも
まさしく「今、ここで、何をすべきか!」という必要性に迫られた
軍事作戦案そのものだった訳だ。ところが江戸時代に入ると、
太平の世になった事で「今すぐに戦う」という局面が消失した一方
世の中を治めるのはやはり武士、つまり軍事エリートである必要性から
「仮に戦をするとしたら、何をすべきか」という“知識”が求められるようになった。
このような時代背景から、江戸時代に“武士の素養”として考案された
軍事学問を「江戸軍学」と呼ぶ。代表的な江戸軍学に、甲斐武田氏の遺臣
小幡(おばた)氏の末裔が考案した「甲州流軍学」や、その派生として
儒学者の山鹿素行(やまがそこう)が大成させた「山鹿流軍学」などがある。

当然、江戸軍学は江戸時代の武士に必要不可欠な教養となった訳だが
明治の近代化で全く必要なくなり、さらに現代の戦跡・城郭研究理論から見ると
「誤った用例や慣習が多く、むしろ無用な混乱を招く学問」という烙印を押され
今では「江戸軍学」と言うだけで目の仇にされるような有様になってしまった。
平和ボケした江戸時代の軍学は、戦国時代の実戦とは全然違うものに成り果て
勝手な推測や屁理屈だけの欠陥学問だ、という事である。



例えば、江戸時代後期に築かれた北海道松前郡松前町の松前城は
長沼流軍学の理論に基づいた縄張だ。蝦夷地、松前の港町を見下ろす
高台に築城されたこの城は、海上から敵軍艦が砲撃してくる可能性を考慮し
天守の壁がケヤキ板を仕込んだ防弾性の高い構造になっていた事で知られる。
硬度の高いケヤキ板を埋め込んだ壁は、御三家筆頭・尾張徳川家の居城である
名古屋城の天守と同じ部材であり、日本最北の和式城郭は尾張62万石の大城と
同等の性能を有していたのだ。さらに、上陸してくる敵兵を防ぐべく
大手門から本丸へと至る道は多数の屈曲で遮られ、艦砲射撃への応戦の為
いくつもの砲門を海へと向かって開いていた。と、これだけ聞くと
松前城は鉄壁の守りを誇る堅城…というイメージになるのだが
幕末、旧幕府軍との攻防戦において僅か数時間で落城した顛末がある。

武士の戦いは正々堂々、攻めるも守るも正面から…というのが
江戸軍学の基本理念であり、松前城は大手口から本丸への経路を
鉄壁の守りで固めていた訳だが、実戦でそんな悠長な理屈が通る筈もなく
城を攻める旧幕府軍は、城の裏手から攻撃を仕掛けてきた。
軍学に傾倒した縄張の松前城は、裏側には全く防備らしい防備を構えておらず
この攻撃にあっさり落城、となったのだ。これが有名な逸話となり
「江戸軍学=単なる机上の空論」という事になっている。
赤穂城址にある山鹿素行像赤穂城址にある山鹿素行像
山鹿流軍学に基づいて作られたのが兵庫県赤穂市、
赤穂浪士の城として有名な赤穂城。これまた、軍学論に言われる
「敵の利き手の反対側(つまり左半身)を狙うのが効果的」という“理屈”で
城門への経路は全て右折れになっている。敵兵は左半身を守り手に晒し
城内への突入を図る事になる為、城兵側に有利…という考え方だ。
しかも射撃の死角を無くす事を目的とし、城の曲輪は全て
複雑な屈曲で囲まれる形状とし、不定形な星型が連続する構造。
築城者の苦心が、縄張図を見るだけで垣間見えるのである。

が、これまた城郭を知る者が口を揃えて言うのが
「姑息すぎて全く実戦的でない」との評判(苦笑)
戦国時代に築かれた“バリバリの実戦城郭”においては
必ずしも右折れの導入経路だけが用いられていた訳ではない。
必要に応じて(地形上の制約もあるし)左折れだってあるし
むしろ、必ず右に折れると敵兵に悟られるようでは
城の構造を見切られるだけの話であろう。射撃の視界を確保するとしても
赤穂城の場合、無駄に壁面が長くなっているだけなので
かえって防備の人員が不足する危険性がある。屈曲していると言っても
例えば西洋築城理論で作られた五稜郭のように射界の角度を
きちんと計算して考えている訳でもなく、“築城の神様”と謳われる
藤堂高虎が築いた城は、むしろ屈曲に頼らず櫓や門の配置に工夫を凝らし
敵の侵入を効果的に撃退できる作りとなっているので、赤穂城の縄張は
これまた「いかにも机上の空論」と評価されてしまうのである。



近年の城郭論では、江戸軍学の「無効性」は更に糾弾される傾向にある。
戦国大名ごとの“築城方法論”を系統化した「武田流築城術」
「後北条流築城術」と言った単語は、もはや使うのが憚られる程に
“禁句”とされてしまった。また、城壁や櫓の床下部分に穴を開き
その直下に取り付いた敵を攻撃する仕掛けを「石落とし」と呼ぶが
実際にこの穴から攻撃する際は、鉄砲を撃ったり槍で突くのが当然とされ
「石なんか落とす訳がない」と断定されている。故に「石落とし」という
名前の付け方は誤りだと酷評された。縄張の基本理念や
事細かな構造物に至るまで、とかく江戸軍学を発祥とする考え方は
もはやどれもこれも目の仇にされているのが現状なのだ。



でも、それってどうなの? (^ ^;



確かに、軍学による縄張論は松前城や赤穂城の例を見る限り
現実的でないモノだった事は分かる。江戸軍学が“武士の嗜み”だったが故に
武士たる者はこうあるべきだ…と言った精神論まで含んでしまい
多分に空虚な理想を掲げていた事は事実であろう。しかしだ、軍学の全てが
まるで無知で無能な屁理屈だったとしてしまうのは、余りにも先人に対して
無礼な暴論なのではなかろうか?先に書いた「石落とし」の話だが
鉄砲や槍を使うのは当然だとしても、逆に「絶対に石は使わない」とは
言い切れないのではないか?戦国時代、投石は有効な攻撃手段であった。
考えてもみて欲しい。野球のボールサイズの石を思いっきり投げつけ
敵の頭にでも直撃させられれば、間違いなく致命傷になるだろう。
城壁に取り付いた敵兵というのは大半が雑兵であるから
兜を被っている者は稀で、恐らく殆どは頭の防備が成されていない。
そこに真上から野球玉サイズの石を投げつければ
かなりの確率で撃退できる筈だ。石落としの開き口は、丁度そのような
野球玉サイズの石を投げつけるのに適した大きさになっているし
補給に限りがある籠城側が鉄砲の弾薬を節約する為にも
そこらに落ちている石を効果的に使うのは十分考えられる筈だ。
ピンポン玉程度では死なないかもしれない。
逆にサッカーボールほど大きい石では投げられないだろう。
また、狭間(さま、壁の側面に開いた攻撃用の小窓)から石を投げても
敵兵の頭に命中させる事など不可能だ。が、「石落とし」から
「適当なサイズの石を下へと投げつける」のは十分に有り得る話…
いや、必ず有っただろう。山崩れで巨大な岩石が落ちてくるような
イメージを持っていたら、そんな馬鹿デカい物をここから落とせる訳がない
という事にもなろうが、手で投げつけられるサイズの石を
真下に落とすのだったら、これを「石落とし(岩落としではないのだ)」と
名付けて何が悪いと言うのであろうか?
小田原城銅門の石落とし(矢印)
小田原城銅門の石落とし(矢印)

内部から見た石落としの規模。これは小田原城銅門(あかがねもん)のものだが
どこの城の石落としも大体これくらいの大きさである。
人のサイズと見比べてみれば、どのように使っていたかも想像できよう。
真下を覗き込み、手のひらで掴めるくらいの石を振りかざして投げ込むに
丁度良い感じの余裕がある(サッカーボール大では通らない)。
鉄砲の筒先を突き出し、槍で真下の敵を撹乱し、投石で頭を打ち砕く。
そうした使い方に適した大きさを確保していた訳で、この仕掛けを
何と名付けるかと考えれば…筒出し口?槍突き穴?
いや、やっぱり「石落とし」が一番しっくり来るんじゃないかなぁ (^ ^;



「武田流/後北条流築城術」という分類も、実際に武田氏の城や
後北条氏の城を見てみれば、その大名に共通する構造が確認できる。
武田氏の城は円形を基本とした縄張で、特に出入口を丸馬出で厳重に固め
一点防御の備えを固めていた事が分かる。他方、後北条流の縄張は
直線的な構築物が多く、出入口を守る角馬出の周りには
必ず後方の曲輪が隣接して相互補完し、重層的な攻撃が可能になっている。
さらに後北条流で特徴的なのが畝堀・障子堀の多用。空堀の底に
小土塁を作り、堀底内での動きを封殺するのが畝堀・障子堀である。

軍学論に端を発するこの「○○流築城術」の用法は、次第に曲解されたり
余計な考え方を追加されたが故に、現在では禁句となってしまった。
例えば、東北地方や九州にある城でも丸かったら「武田流」…。
畝堀がある城は「後北条流」しか有り得ない…。
比高二重土塁(高さの異なる土塁を二列並べたもの)があるのも
「後北条流」の特徴に違いない…
などなど。
いや、それは違うでしょ!
「武田の城は丸い」かもしれないが、「丸かったら武田の城」ではないでしょ!
「後北条流は畝堀を多用するけど、他の城だって使っている場所はある」よね?
「比高二重土塁を後北条の特徴に追加するのは極論し過ぎ」だと思う。
確かにそれは「○○流」という概念を誤解させる原因な訳だが
そうした誤解を解いた上で、基本的な部分での「築城術」とされる共通性は
むしろきちんと認めるべきなのではなかろうか。

要するに「江戸軍学が悪い」のではなく
「江戸軍学が悪くなるような解釈」を近年の研究家が
恣意的にしてきたのが悪い―――と申し上げたい。
正しい意味での「武田流」「後北条流」という概念は
禁句にするどころか、積極的に使って城郭論の研究発展に活かすべきでは?
杉山城問題では、考古学上と縄張論上での見解に大きな相違が発生したが
それもまた、縄張論を改めて精査し直す良い機会と捉えればいい話だし
軍学を悪者にして責任を放棄するのではなく、
実情や考古学との整合性を踏まえた新たな「○○流」を規定してみるのも
今後の城郭論研究の大きな課題にしてみると面白いかもしれない。



※杉山城問題
埼玉県比企郡嵐山町にある杉山城は、あまりにも高度な縄張技術で築かれ
その特徴や地勢上の観点から、従来は小田原後北条氏の城と見られてきた。
ところが近年、考古学的知見で発掘・再検証を行ったところ、どう考えても
後北条氏が進出する「以前にしか」使われなかったという遺物しか出なかった。
この為、従来の縄張論的考察は根底から覆ってしまい、杉山城の成立年代は
全く見当がつかなくなってしまったのである。これを杉山城問題と言う。
縄張論と考古学の隔たりを埋める満足な結論は、未だ出ていない。

※後北条流?上杉流?? 〜 武田流?徳川流??
その縄張論であるが、関東地方(特に南部)の諸城郭を精査すると
小田原後北条氏が進出して用いた城(すなわちこれが後北条流)の多くが
それ以前の統治者である上杉氏の城を改修していた事になる。その上杉氏の城も
縄張的に見ると、多くが直線を基調としたものであった。となると、これまで
「後北条流」の一言で片付けられていた城が、実は上杉家の縄張を踏襲した上で
発展・改良されたものなのではないか?とも考えられる。
他方、武田流の城に目を遣れば、武田氏が織田・徳川氏に滅ぼされて以降
その殆どが徳川家康の支配下に置かれた。当然、家康はこうした城を活用し
豊臣秀吉の命令によって関東へ国替えとなるまで、整備拡張を行っている。
有名なものが静岡県島田市にある諏訪原(すわはら)城で、武田流築城術つまり
武田氏によって完成された城と考えられていたものが、最近の発掘調査によって
明らかに徳川時代に仕上げられた城だという結果が出ている。家康は武田遺臣を
数多く召抱え軍制改革を行った事が知られており、城の活用法も同じように
「武田流を受け継いで」徳川氏の城とした…と考えるのが自然だろう。
ならば後北条流も「上杉流を起源として」成立した?と推測できるのではないだろうか。
「後北条流と考えていたのがそうでなかったのだから、後北条流そのものが誤りだ」とか
杉山城問題で「考古学的年代に合わせれば『後北条流』である筈が無い」と
固めて決めかかるのではなく、「上杉を発端とする後北条流」とか
「武田〜徳川流」くらいの柔軟な発想をすれば、もう少し先の展望も見えるのでは?
○じゃなければ×というような、二者択一なだけでは割り切れないのが歴史学ではないかと… (^ ^;





現在、21世紀。最新のトレンドは目まぐるしく変わり
バブル時代は…ちょっと古臭くなってきた(笑) 昭和の高度成長期は
記憶の彼方に追いやられつつあるかな? 戦後の混乱期というのは、
もはやその時代を生きてきた先達たちの思い出の中だけになってきたし
大正・明治の話は、とうに教科書で習うだけのモノになってしまった。
況や、江戸軍学なんて真実は誰も知らないレベルの話だし
ドラマで再現される戦国時代の合戦なんか、本当かどうかマユツバ物だ。
江戸軍学を、現代の我々が嘲笑するのも致し方ないのかもしれない。
だが逆に言えば、軍学が考案された頃の年代から見てみれば
戦国時代はまだ“近い過去”の話だった筈である。21世紀の人間が
バブルや高度成長期を懐古するのと大差なかっただろう。となれば、
軍学が説く戦国の合戦術と言うのは、誇張や記憶違いも含まれようが
21世紀の我々が推測するよりは正しい情報に近かったのではなかろうか?
そもそも、甲州流軍学の祖である小幡景憲(かげのり)
まだ武田信玄が存命中に生まれた“現役の戦国武将”であった。だとすれば
(余計な解釈が付け加えられる前の)大もとの甲州流軍学は、それなりに
実戦経験を基本とした「軍略」に相当するものだったと思われる。
先人の“知の遺産”を殊更馬鹿にするのは止めて
もっと謙虚に、冷静に追求したいものである。




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