★★★相州乱波の勝手放談 ★★★
#18 【歴史の悪人を擁護するシリーズその3】独断人物評:井伊直弼
 




井伊直弼像 いいかもんのかみなおすけ
井伊掃部頭直弼。徳川四天王・井伊直政から始まる彦根藩主15代目。13代藩主
直中(なおなか)の14男として生まれたため当初は家督を継ぐ立場になく、自身を“埋木”と
自嘲していたものの、武芸学問の鍛錬は怠らず身を律し、兄の逝去や養子転出の流れで
遂に藩主の座へ着いた苦労人。彦根藩政では愛民の善政を敷き、その評判が高かった
事から、江戸幕府大老職も射止める。しかし当時は外圧の嵐が吹き荒れ、激動の世を
渡るべく、いつしか非情の人へと変貌していく。


・ 無勅許の通商条約締結
・ 将軍継嗣問題の独断決定
・ 安政の大獄

井伊直弼という人物を悪人たらしめているのはこの3点によるものであろう。
周りの意見を聞かず、自分の判断が全て正しいと思い、逆らう者は抹殺。
これが一般的に井伊直弼を“独裁者”として決定づけている要因だ。

でもそれって、本当に正しいの?というか、
個人的には、全然納得できない! (ー゙ー;
と言う事で、「歴史の悪人を擁護するシリーズ」第3弾として採り上げるのは
恐怖の弾圧政治家?井伊直弼です。さてはて、どうなる事やら…。
まぁ、近年は井伊の再評価がされるようにはなってきてますが (^ ^;



歴史認識というのは(どの年代に於いても)その時の時代背景を分析した上で
考えなくてはならないものである。井伊直弼を断ずるならば、当然
ペリー来航に始まる外圧や江戸幕府の統治状況などを検証してからでなくては
彼の所業が是か非かを決める事など出来ない筈だ。そこで今一度、
これらの点を“当時の社会通念なども含めた上で”洗い直してみよう。





ペリー来航に始まる、と書いたものの実は日本近海への外国船接近は
それより以前から既に確認されてきた。教科書で習う日本史では、
島原の乱によって幕府が鎖国政策を行い、オランダ以外の国は排除され
以降200年以上、外国船が来なかった所をいきなりペリーがやって来た…
と言うような印象を作っている。そこまで極端ではないにせよ、
一般的な認識では、西洋列強の日本進出は19世紀に入ってからの話と
思われているのが大半ではなかろうか?しかし、鎖国完成から間もない
17世紀後半から、既に日本近海へ“威力偵察の”異国船が接近しており
特に四国や九州の沿岸には「遠見番所」と呼ばれる海岸監視の哨戒所が
いくつも設置されている。この遠見番所が、後に台場と呼ばれる
異国船打ち払いの砲台場へと進化していく訳だ。そして18世紀後半になると
ヨーロッパでの覇権闘争がそのままアジア諸国への植民地拡大政策に繋がり
イギリスやフランスの船舶が東洋へ来航。さらに極東進出を果たしたロシアも
樺太や北方4島を経て蝦夷地に“襲撃”をかけてきたのである。

経世論者・林子平(はやししへい)はこうした海外情勢に気付き
「海国兵談」を著し、西洋列強の脅威を説いた。にも関わらず、幕府は
外交政策に何ら有効な手を打たず、為にペリー来航まで無策であった。
―――というのも、歴史を知る人ならば少なからず持っている印象であろう。
市井の一学者に考えられる事を、何故幕閣は手出ししなかったのか?となれば
幕府に対する失望・反感は増し、開国による反幕府勢力台頭(つまり倒幕活動)も
当然至極という事になろう。

ところが、現代人が考えるほど江戸時代の情報流通というのは
公開されたものではなかった。市民生活で起きた事件とか、はたまた
大地震の発生など“誰もが知り得る”事については瓦版や飛脚伝達などで
比較的迅速に、その事柄を通達していたようではある。しかし、幕政とくに
外交といった“トップシークレット”に関するものは完全非公開である。
例えば(これも教科書的話題だが)享保の改革で徳川吉宗が編纂した
公事方御定書なる法令集がある。しかし、これが一般庶民に公開された事はなく
単純に、奉行がお裁きの基準として用いただけの「極秘文書」だった。
庶民にお触れとして知らされたのは「以後、○○については××せよ」と言うように
対応事例の例示だけであり、法令の全容が公開されるものではないのだ。
現代、六法全書を見れば事細かに法令の細則が確認できたり
インターネットで何でも検索すれば引っかかる、というような感覚からすると
江戸時代の情報公開というのは、極めて限定的なものだった。ましてや、
幕政の方向性を庶民に知らしめるような事は有り得ない。「海国兵談」を著した
林のような例は、言わば異端の事例であり、対外情勢について知識があるのは
蘭学を修めた学者か、幕閣のトップに限られる状況だった訳だ。
現代人の感覚と、当時の感覚には大きな相違がある事がキーポイントになる。

幕閣のトップにあった井伊は、当然ながら外国情勢について
“知り得る”立場にあった。是すなわち、当時の日本の軍事力と
西欧列強の軍事力に大きな隔たりがある事を認識していた人物と言える。
再び幕府の異国船対策に話を戻せば、外国船が見えたら即時に打ち払えとした
無二念打払令を1842年に薪水給与令へと改めている。それまで、外国船に対し
有無を言わさず砲撃を加えて追い返そうとしていた対応を、食料や燃料を与え
穏便に“お引き取り願う”ように変更したのだ。これは、1840年〜1842年の
阿片戦争で「超大国と信じていた」中国(清王朝)が、地球の裏側から遠征した
数隻のイギリス軍艦に大敗を喫したという驚愕の情報によるものだ。
清が勝てない相手に日本が勝てる筈が無い、となれば戦争にならないよう
配慮すべきという判断である。この考え方は非常に正しかったものだ。
また、あまり知られていないが天保の改革を行った老中・水野忠邦もまた
開国の必要性を感じていた。水野にせよ井伊にせよ(どちらも歴史的悪役だが)
幕府のトップは実は極めて現実的で理に適った外交政策を採っていた事になる。

井伊の外交が非難されるのは、例えば朝廷が勅許を出さなかったとか
水戸藩をはじめとする攘夷派の意見を封殺したとか、つまるところ
「総意を取り付けずに開国を行った」という所にある。しかし朝廷や水戸藩など
攘夷派の言わんとする所は感情論に基づいて「外国人は追い出せ」というもので
具体的に日本と外国の戦力差を鑑みているとか、
鎖国を続けた場合のリスクとかはまるで度外視しているのである。
国政を預かる大老職としては、こんな意見は聴くに値しないものだと考えて
当然であろう。そもそも、江戸幕府の統治とは朝廷や諸藩、ましてや
庶民の理想論など受け付けず専制独裁体制で行われる事が当然であった。
禁中並公家諸法度により、朝廷(天皇)は政治に参加せず
伝統文化の継承にだけ専念すべきと規定されていたし、況や諸藩や庶民は
“武家の最高権力者”である将軍にひたすら従うものというのが
江戸時代の社会体制だった。水野忠邦の後任老中・阿部正弘が
1849年に海防政策について諸藩に諮問、ペリー来航直後には恐慌をきたして
広く庶民にまで意見を求める方策を採った事で、朝廷や諸藩からの発言力が
急激に高まった訳だが、元来これは幕府の統治理論と相容れないものの筈で
“幕府権威の復活”を標榜して大老になった井伊としては、やっかいな
“阿部の置き土産”のせいで謂れのなき逆風に立たされただけの事なのだ。



※阿部正弘の外交について
近年、阿部(およびそれ以降)の開国政策は“気概を持った開国”であったとし
西洋列強の軍事的圧力に屈せず、対等外交を目指した英断だったと
考える説が急浮上してきた。どうも、戦後70年を経て敗戦の反省を忘れたり
近隣のC国・K国からの領土問題に“武力対抗あるのみ”と極右化する昨今の風潮が
遡ってペリー来航時に於いても「日本は逃げ腰などではなかった!」とし
国威発揚のネタにしようと考えているようにしか見えない。しかしどう転んでも
当時の日本と諸外国の戦力差は如何ともし難いものだった筈だし
阿部正弘と言う人がそんな強硬論者だったとも思えない。仮にそれだけ強硬論者なら
いっその事、開国などせずにペリー艦隊と一戦交えた事であろう。また、諸藩や庶民に
意見書など求めず、独断で外交方針を決断した筈だ。が、実際は1853年の来航時
「1年考えさせてくれ」と言って引き伸ばした挙句、翌1854年になっても
とうとうペリーを追い返す策が出来なかったから開国したのだ。これが
“気概を持った開国”などと言うのはチャンチャラ可笑しい。
C国やK国との領土問題に対する対応策や、国際社会における日本の地位向上は
もちろん必要な事であるし、21世紀の今こそ“気概を持った外交”が求められているのは
間違いない事実であろう。しかし、太平洋戦争後の戦後政策を反省ではなく“自虐”としたり
このようにペリー対応の経緯を誇大妄想で取り繕う方向性は、歴史を少なからずかじった者としては
受け容れられないというのが個人的感想。負けは負けとして、反省すべきは反省した上で
(※CKらの不当理論を認めるという意味ではない。また、国土防衛に必要な体制は当然維持すべき)
むしろ「阿部は弱腰だった『が、それでも日本は難局を切り抜け、アジアで一番早く近代国家を成立させた』」
「『戦後日本は誠意を尽くしてアジア諸国に謝罪し』現在は世界に恥じぬ平和国家である」
とした方が、正々堂々と他国と渡り合えると思うのだが…。虚栄虚飾で国威発揚と言うのでは
それこそ一党独裁で厚顔無恥な某国や、かつて我が国が歩んだ悪しき軍国主義の
「日本良ヒ国、強ヒ国、世界ニ輝ク偉イ国」という考えと変わらないのでは?
阿部の開国に話を戻せば、弱腰外交だったのかもしれないが
それによって日本は西洋の植民地とされる事を避けられた訳であり、政策の
方向性自体は間違っていなかった。他方、この開国に端を発する不平等条約の改正に
その後の日本が半世紀を費やす事になった事も事実であり、虚勢を排除し
客観的・冷静に阿部外交を評価するのが、歴史家の責務だと考える。



つまる所、朝廷や長州藩士と言った(=情報を与えられていなかった)連中は
「最新の世界情勢」を全く知らないのに口を開けば攘夷攘夷の一点張りで、
とても現実的判断が出来ていたとは考えられない。井伊としては
「馬鹿者共が、知りもしないくせに余計な事を言うな!」と言いたかった事だろう。
狂乱的に攘夷を目指した長州藩は、その後の下関戦争で手痛い被害を受け
朝廷(新政府)もまた維新後に欧化政策へと転換する。
結局、井伊の目指した外交政策を彼らも踏襲せざるを得なかった訳で
言い換えれば「井伊の独断専行」どころか「井伊の先見の明」だった事になる。
井伊に周りを見る目がなかったのではなく、
周りが井伊の足を引っ張っていたとすれば
条約締結について井伊直弼を糾弾するのは完全に筋違いであろう。



※通商条約の問題点
通商条約締結の問題点と考えるべきは、例えば金銀の交換レートが
日本と西洋諸外国で大きく異なり日本の金貨(小判)が大量に海外流出してしまった点や
急激な貿易収支の変動で、日本国内における物資の需給が崩れた点、つまり
締結の可否ではなく、その効果が日本経済に大きなダメージを与えた所である。
が、これは執政が誰であろうが同じ結果を招いただろうし
こうした経済ダメージを回避する術が、当時の日本には無かった事から
井伊だけの責任として追求するのはこれまた酷な話であろう。

※井伊の腹芸?
近年、彦根藩の記録文書が発見された。それによれば、幕閣会議において井伊は
会議の冒頭「有力諸藩に合議の上で通商条約締結を判断する」としていたが
話が白熱し、会議が終わる頃になると「条約締結で決了する」と決めてしまった。
伴をしていた彦根藩士が、藩邸に帰ってから井伊に
「諸侯に諮って決めるのではなかったのですか?」と問い詰めると
「しまった、失念した」と困惑顔で答えたものの、既に決済した事なので
どうにもならなかった、という趣旨の記載があったそうな。
この話が事実であれば、井伊は執政にあるまじき頭の悪さ…という事になるが
果たしてこの文面はそのまま受け取れるものなのであろうか?
諸藩合議の体裁を見せておいて、実は決定路線になっていた条約締結を
幕閣会議の流れで最初から上手くごまかすつもりだった“井伊の腹芸”を
空気を読めない?馬鹿正直な?家臣がわざわざ突っ込みを入れてしまい
咄嗟に失念した事にしたのではないだろうか。或いは、そういう文章を残して
諸藩からの追求があった際「最初から決定していた訳ではない」と言い逃れる為の
予防線を張っていたとか…そうでなければ、藩主の失態をわざわざ
記録になど残す必要がないと思うのだが???





将軍継嗣問題については、井伊が率先して紀州藩の徳川慶福(よしとみ、後の家茂)
擁立したのは間違いない。が、対立候補の一橋慶喜は時の将軍・徳川家定から
避けられており、家定も慶福を後嗣とする方針を固めていた。
慶福を次期将軍に決定し、一橋派を排除せんとした時期が
ちょうど安政の大獄を始める契機となっ(てしまっ)た為、
この将軍継嗣問題が井伊の独裁者ぶりをことさら強調する事になったが
必ずしもこの決定は、井伊が一人で勝手に決めたと言う訳ではないのだ。

そもそも「独裁者」というのはそれ自体が必ずしも社会的悪とは言えない。
現代の、つまり近代民主主義が浸透している世の中だから
「1人が全てを決める独裁は良くない」と考えるだけの事であり
封建制の世の中であれば、独裁はむしろ当たり前の政治体制と言える。
逆に言えば近代民主制とて「多数の総意がまとまらなければ何も出来ない」訳で
独裁制、民主制それぞれに長所と短所があるのだ。ペリー来航に始まる
未曾有の国難にある時代なればこそ、強力な指導力を持つ独裁者が
国の方向性を決める事は必要だったと考えるべきであろう。
要するに、独裁者が「最良の選択」をすれば良いだけの話なのである。

一橋派と言われる面々は、幕府の政治体制を改変し
朝廷や外様有力大名まで含めた合議体制で幕政を運営しようとする
考え方だった。これに対し紀州派は、旧来の幕府専制で国を固め
何者の干渉も受けずに徳川家の本流を維持しようとするものだ。
即ち、紀州派(つまり井伊)はガチの「保守派」な訳だが、
この「保守派」という概念も、政治学的に言えば必ずしも悪いものではない。
どうも保守派という言葉の響きは「古臭い」「変革しない」と兎角
後ろ向きなイメージが付きまとうが、決してそうではなく
「従前の実績に裏付けられた安定志向」と言うのが本来の意味なのだ。
となれば、井伊は外交で現実的改変を創出し
それを達成する為に、国内政治では安定政権の確保を狙っていた訳だ。
一橋派の考え方は、必ずしもそれで国内運営が好転する保証がない“賭け”で
幕府の最高責任者である井伊が、そんな博打に打って出ない事は
選択として正解だったのではないだろうか?

ちなみに日本史を振り返ると、合議制の名の下に運営された政権は
どれも長続きしていない。鎌倉幕府、源頼朝没後に成立した
所謂「13人の合議制」は早々に瓦解し、執権・北条氏の独走体制に変わった。
豊臣秀吉没後の五大老五奉行制も、あっという間に徳川家康が幕府を開設。
村単位では惣村の合議運営もあっただろうが、
(室町時代後期の「惣国(山城国一揆や加賀門徒支配)」が最大レベル)
国政の運営となると、やはり権力を握りたいと考える者が
周りを蹴落としてでも、トップの座を欲するのが人の世の常と言う事か。

一橋派が計画していた合議制が仮に成立したとして、順当に薩摩あたりが
政権奪取を狙う?あるいは徳川宗家がそれに対抗して旧態に戻そうとする?
最後は水戸藩が全部話を御破算にしてくれる?といった感じの
綱引きになり、結局元の黙阿弥になった気がする…。
実際その一橋慶喜が後年15代将軍になった折、徳川主導を画策し
彼自身が外様大名の政治参加制度「諸侯会議」をぶち壊して
薩摩藩を倒幕派に転向させてしまう結果を導いたのだから
やはり幕府権威維持という観点では、最初から一橋派は排除し
紀州派の計画を完遂させるのが正しかったと考えられる。

と言うか、改革派の旗頭であった筈の慶喜こそが
将軍に就任するや、徳川家の勢力維持を第一に考えて(ある意味なりふり構わず)手を打ち
井伊以上の保守?と思える態度だったのだから本末転倒もいい所である。
しかもそれで倒幕派の火に油を注いだのだから…何ともはや、どうしたものやら。
所謂「倒幕の密勅」に対抗すべく大政奉還をしたのは、幕府を倒そうとする
薩長の旗色が優位となったこの時点において、一度お流れにした「合議制」を再提案し
その中で徳川主導を確立すればまだ巻き返せると考えた“次善の策”だったのだろうが
それではもはや薩長の勢いを止められなかったという事なのだろう。






さて、ここから本題と言うべき安政の大獄についてである。
改めて言うまでも無いが、井伊直弼が大老の職権を振りかざし
外交方針や将軍継嗣問題で敵対した相手を次々と獄に陥れたと言うのが
この「安政の大獄」だ。これによって幕府(井伊政権)と異なる思想の者は
社会から抹殺され、将来有益な人材までが処刑されたとされ
井伊直弼という人物を“日本史上最悪の圧政者”に決定付けている。

しかし、しかしだ。これまた現代の民主主義に生きる人間だからこそ
「独裁者の粛清は不当だ」「法令に基づかない処刑は有り得ない」と
考えるのであって、封建制(そもそも、江戸幕府は武士の軍事政権である)では
「敵対する者は排除される」のが当然だと言える。井伊の所業は
非道だったかもしれないが、実は不当と云うものではないのだ。
どこぞの国では現代でもこうした粛清が当然に行われている位だしw

例えば寛政の改革で、老中・松平定信は朱子学以外の学問を禁止し
そうした学問に傾倒するものを厳しく罰した。つまりこれは、定信によって
幕府と相容れない思想が排除・統制されたものである。そこから遡って
明和事件・宝暦事件(いずれも過激な尊王派が幕府から弾圧された事件)、
徳川吉宗将軍就任に伴う間部詮房(まなべあきふさ)の排斥、
徳川綱吉将軍就任時における大老・酒井忠清罷免など、幕政の安定化や
政変ごとにこうした粛清劇は多かれ少なかれ発生しているのである。
江戸時代のみならず、もっと前に目をやれば
豊臣秀吉の千利休切腹命令、織田信長の比叡山焼き討ち、
松永久秀による将軍・足利義輝暗殺、足利義教による恐怖政治、
鎌倉幕府における執権・北条氏の専制体制樹立…とまぁ、
数えたら限りがない。戦国時代の争いなんて、そもそも
敵対した相手を滅ぼす為の戦いな訳だし、応仁の乱だって
元はと言えば政権闘争に端を発した大戦争と言える。
要するに、封建制(武家政権)においてはこのような政敵排除が
当然の如く行われてきた訳で、井伊が国難に対処する為
「断固として政権運営の障害を許さない」として行ったこの獄は
確かに非情だったかもしれないが、ある意味当然の結果であり
処分された側としても、それくらいの覚悟は求められていた筈だ。

現代の民主主義とて、“数の原理”の裏を返せば
「少数派は(仮に正論を吐いていたとて)敗者」という事になる。
民主的な代表者選任、つまり選挙というのは
「どれだけ票を取れるか」が勝敗の鍵になる訳だが、それは要するに
「どれだけ政敵側に票を取らせないか」という戦術にもなり
日本ではあまり見かけないものの、欧米では普通に
ネガティブキャンペーンを行っている。民主主義政治であっても
「相手を潰してやろう」という考え方に変わりはないのである。

個人的に言えば、安政の大獄で刑死した人材よりも
尊皇攘夷派が「天誅」などと称して暗殺した
佐久間象山や吉田東洋、横井小楠などの方がよっぽど
来たるべき新国家樹立・運営の為に必要な人材だったと思える。
特に佐久間象山、奇人変人ではあっただろうが
近代国家樹立において、科学分野や軍事兵学の発展に関し
多大なる貢献をしたであろう事は容易に想像できる。
反対に、大獄で首を斬られた吉田松陰なんかは
あそこで死んでいたからこそ、神様にまで祭り上げられたのでは?
もし松陰が存命のまま明治新政府が成立しても、
融通の利かない頑固さや暴走しまくりな血の気の多さは
逆に新政府の中から倦厭されるか、もしくは松陰自身が
維新内維新(つまり反乱者の中で更に反乱を起こす)を惹起させ
明治国家は冒頭から頓挫したのではないかと考えられる。
そういう意味では、井伊が松陰を「危険人物」と見做して処刑したのは
やはり国家運営の観点から正しい選択だったのかもしれない。





井伊を弁護する内容だけに、いくらか偏りや跳躍した思考に基づいて
この文面が出来上がっている事は筆者自身認めるものではあるが
こうして書き連ねれば、少なくとも井伊直弼の選択というのは
どれもこれも「当然の事をしているだけ」という結論に帰着する。
現代人の観念で考えてしまうと「非道の行い」「強権独裁者」になるが
当時の社会通念に当てはめれば、まさしく「大老らしい大老」なのである。
仮に安政の大獄が貫徹され、幕府に反対する者を全て粛清しきれていれば
(どういった形にせよ、敵対勢力を一掃できれば“勝者の理屈”で押し通せるのだ)
江戸幕府の全国統治体制はそのまま堅持され、
あんなに早い倒幕はなかったかもしれない。
井伊直弼は、自身が目指した政治理念(旧来の幕府権威を保つ)を実現する為
最も合理的で確実な方策を採っていたのは間違いなく
虐殺も厭わぬ覚悟で“天下布武”に邁進した英雄・織田信長や
実の弟(義経)を殺してでも武家政権を磐石なものにした源頼朝らと
何ら変わらない「信念の人」だったと言えよう。
桜田門外で水戸浪士に首を掻かれたのは因果応報だったのかもしれないが
彼が死した事で「幕府が急激に崩壊した」のだから、やはり
井伊直弼という人物は、江戸幕府にとってなくてはならない人材だった筈だ。
「非情の人」は「非常の人」と表裏一体だった―――。
歴史の悪人は、必ずしも本当の悪人ではないのである。
江戸城 桜田門




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