★★★相州乱波の勝手放談 ★★★
#17 誰かがやってそうで、でもなかなか…
 




誰かがやってそうで、でもなかなか
見かけない事をやってみたw
ん?何のこっちゃ??? (^ ^;



個人的な話をしますと、結構子供の頃から歴史好き、特に城好きで
つまりもうン十年という位で城の話に関わってきている訳ですが
(↑別に年齢を誤魔化そうというのではなく、経年でこの文章を改訂するのが面倒なだけです、ハイw)
ここ数年、特に21世紀になってからの城郭的話題の進歩は目覚しくて
新史料の発見で通説が覆ったり、技術革新で城の復元が進捗したりで
長年の城好きとしては、なかなか嬉しい話が増えてきている感じがします。

まぁその分、宅地開発や高速道路建設で
名も知れぬ城跡がゴッソリ潰されたりもしてますが(苦笑)

そんな中でも最近よく書籍やTV番組で見かけるようになったのが
城郭の復元CG。往時のデータを正確に検証し(想像とかもありますけど)
かなり綺麗な画像を作り出し、我々の目を楽しませてくれています。
大河ドラマでの映像とか、城郭復元の専門家である3kidsさんのサイトとか…。
今は見る事の出来ない安土城天主や江戸城天守の勇姿とかを
空想ではなくリアルな姿に再現して頂けると、かなりテンションが上がります♪
いやぁ、良い世の中になったもんだ(って、そこまで大層な話でもないけどさwww)



とは言え、こういうCGに挙げられる城郭と言うと、だいたいは
上に記した安土城や江戸城の他、大坂城とか会津若松城とか
一般的にも知名度が高い城に限られる訳で。まぁ、復元の史料になる
絵図面や指図(設計図の事ね)がしっかり残っている城となると
必然的にそういう城になってしまうのは仕方ないんだけど
でも、史料は残っているのに再現されないような城郭があるのもまた事実。
再現CGの需要が無いんだろう―――なんて言ってしまうと失礼ですが、
せっかく再現できるのに、やらないというのも何だか残念な話だな…と思う次第。
誰かがやろうと思えば可能なのに、何で誰もやらないんだろう?というモノを
オイラの拙い技術でもやれるならやってしまおう!というのが今回のお題です(笑)




っつー事で、城郭建築をいくつか合成写真で復元してみま〜っす! (^^)





★その壱
名古屋城天守を古建築と同じ窓割にしてみる!

中京圏の中心都市、愛知県名古屋市。
言わずもがな、尾張徳川家の城下町であった名古屋は
昭和20年に米軍の空襲で焼失するまで、大小天守に本丸御殿まで加えた
壮麗な城郭が旧来の姿のまま、残されておりました。
尾張名古屋は城で持つ、とまで謳われた城は
昭和34年に天守を復元する事で復活し、名古屋の町のシンボルとして
現在もなお、金の鯱を天空に輝かせております。
しかし再建天守は鉄筋コンクリート製。法律の規制やら何やらで
木造再建が果たせなかったのは致し方ないとして、再建天守は
展望台としての遊興性を加味した為、最上階の窓が2枠分ぶち抜かれた
大型のものに改変されてしまい、古建築とは趣が異なったものになって
しまいました。ちなみに、明治時代に撮られた古写真での天守がコレ↓
名古屋城天守 明治撮影古写真名古屋城天守 明治撮影古写真
明治期撮影と分かるよう、今は廃された多聞櫓と共に写る写真を選択しました
 ※写真をクリックすると拡大画像が別画面で表示されます(以下同じ)

ご覧の通り、最上階の窓は下層の窓と同じサイズのものが並んでおり
統一感のある、引き締まった姿になっていた訳なんですが、
再建天守の展望窓はパックリと大口を開けているので、現状はこんな状態↓
朝焼けに色づく名古屋城天守朝焼けに色づく名古屋城天守

という事で、古建築と同じ窓割にしてみれば
再建天守も少しはそれっぽく見えるようになる筈!という合成写真がこちら〜♪
   名古屋城天守 合成写真名古屋城天守 合成写真
拡大画像を見て頂くと判るんですが、窓の排水樋もきちんと描き込みました! (^^)





★その弐
飯田城八間門を再現してみよう

南信州の静かな城下町にして、リニア新幹線駅建設地となった長野県飯田市。
明治時代に廃城となってから、かつての城跡は公園や宅地へと変貌し
ほとんど当時の遺構を残していません。それでも、堀で区切られた曲輪跡は
周囲を断崖で切り立たせ、ここが地形を巧みに利用した城だった事を物語り
いくつかの城門が、寺の山門や地元豪農の邸宅門として移築され残ります。
そんな移築門の中でも特に有名なのが八間(はちけん)門。
市街地の郊外、木下家の門として再利用したこの門は
移築先でも巨大な威容を誇り、まるで木下邸そのものが城であるように
見せる程の立派な姿です。この八間門について、友人のえどっちさんが
飯田市の教育委員会に問い合わせて下さったところ、以下のような回答が。

旧飯田城の八間門は、二階建の三間一戸の櫓門で、
二階は扉口より前面に張り出し、石落としを設けています。
二階を支える梁の両端に、堀か櫓が接続していた痕跡があり、
以前は一階の両側に石垣があり、枡形を形成していた門と考えられます。
門に付く長屋も飯田城から移築されたと考えられますが、
移築の際や後世の改修を受けています。
《以上、原文のまま転載》
※「堀」と書かれているのは恐らく「塀」の誤記だと思われます

つまりこの説明だと、旧来の八間門は櫓門形式で
1階部分の両脇には石垣があった?
そして長屋部分も恐らくは当時から付随していた?
即ちこの長屋は2階部分に接続していた?という話になり
移築の際に、長屋部分は地表面に下ろして再構築した…という事ならば
現状の木下邸の門から、長屋部分を持ち上げて
木下邸門こういう感じに、長屋部分は持ち上げて…
全体的に石垣の上に乗っけてみると
八間門 復元写真八間門 復元写真こんな感じかな〜?





★その参
関東最後の五重天守、沼田城天守を再建してしまえ!

江戸幕府の支配体制が確立すると共に、全国の城郭は統廃合され
新築や改造は厳しく制限されていきます。特に、幕府のお膝元である関東では
壮大な天守を揚げるような巨大城郭は軒並み廃されていき、五重天守を持つ城は
幕府の本拠地である江戸城の他には、たった1箇所しかありませんでした。
その江戸城とて、明暦の大火で天守を失ってしまった為
最後に残された五重天守は、上野国の沼田城だけになってしまったのであります。
ところが沼田城も、御家騒動が起こった事で幕府から目をつけられ
惜しくも17世紀末には、天守を失った城になってしまったのですが
当時の姿を想像した復元模型が、現在の城址に展示されています。
沼田城天守 復元模型←これがその復元模型 ※お城EXPOに出張した際の撮影
下見板張りの黒い天守、破風はかなり豪華にいくつも附けられ
西面(画面左側)の大入母屋破風は、南側(手前側)に偏った特殊な意匠。
かなりの高さがあったと思いますが、その最上階には高欄が廻っていて
ここからの眺めは、さぞかし良かったでしょうねぇ。
城マニアとしては、なかなか興味をそそられる面白い建物なんで
これは是非とも(写真上で)再建してみたい!
という事で、この天守を画像再現し現状の天守台に被せてみましたのがコレ↓
ちゃんと袖塀まで入れて作り上げましたよ〜ん! (^^)v沼田城天守 合成写真
上州の青い空に、漆黒の天守が良く映えます…(思わず溜め息が出そうw)






★その四
小倉城天守から、要らないモノを消してやる! (▼▼メ

まずはこちらの写真から…。
小倉城復元天守 現状写真小倉城復元天守 現状写真
北九州、小倉城の再建天守です。再建と言うからには近代の建て直しで
名古屋城と同じく、昭和34年に作られた天守です。江戸時代の天守は
室町幕府管領家からの名族・細川氏によって1609年に建てられましたが
1837年に失火で全焼、以来復旧されないままになっておりました。
昭和の高度成長期、どこの町でも見られた事ですが
「我が町の城に天守を!“もはや戦後ではない”証になるシンボルを !!」と
天守再建ブームに乗り、小倉城にも(鉄筋コンクリですが)
新たな天守がお目見えした訳であります。

が、この再建には大きなトラップが!(苦笑)
江戸時代の「本来あった」天守には…
小倉城天守 立面図小倉城天守 立面図
どこにも破風なんか附いてなぁーいっ !! (><)
(ついでに言うと、狭間の間隔も違ぁーうっ !!)
再建天守は、派手に飾りつけようとして
ありもしない破風をいくつもいくつも盛ってしまった訳でして…。
となれば、これは消し去ってしまうのが本来あるべき正しい姿!という事でドン !!!!!
小倉城天守 合成写真小倉城天守 合成写真結構自信作です!
やはり層塔型天守はスッキリしていて清楚でなきゃ… (^^;



#【追記】ちょっとだけ愚痴的な余談
この小倉城天守の合成写真、2017年8月10日に放送されたBS朝日さんの某城番組で
使用されました。が、この画像は他人様の写真に手を加え作らせて頂いたものだったので
事情を説明して、やんわりと転用をお断りさせて頂いたんですが、全くお構いなしに放送され
事後の承諾や謝辞の連絡も一切なし、それどころか出展のキャプションも全然なく、まるで
番組サイドが自前で用意した画像であるかのような使われ方をしておりました。
全国放送に使って頂いた事は光栄ですので、殊更それを批難するつもりもないんですが
(何せこちらも他人様の画像を掘り起こしている訳ですし)
このままだと事情を知らない方から、ウチのHPに使っている画像の方が
「BS放送からパクった」と勘違いされかねないので、当初の公開画像から更に手を加え
全く違う背景に差し替えて公開し直しております。要するに元々の画像からは
ほぼ全部作り直したようなモノに変わっている状態でして…
(もうこうなると原画は全然関係ないというくらいです)色々と手間が掛かりましたw
何の連絡もなく使いっ放しにしてくれたBS朝日さん、ちょっと道義に反するんじゃ???
諸々の風聞を聞くにつけ、何と言うか放送業界の人ってこういう風に「使ったモン勝ち」という
傲慢な意識が少なからず根底にあるんでしょうかねぇ?もちろん、私の知り合いにも
放送製作に携わっている人が居て、その人はとても腰が低く色々と気配りできる方なので
全部が全部そういう不遜な人ばかりという訳ではないんでしょうが、業界の中でも
意識の高い人とそうでない人が居るという事なんでしょうかねぇ?
一応、放送で使われた旧画像は
こちらです…。





★その伍
今治城を本来の姿に戻しませう
※この項の写真はネガフィルムをスキャンしたものなので、解像度が落ちておりますが御容赦下さい

加藤清正と並んで城作りの2大巨頭とされるのが藤堂高虎。
その高虎が関ヶ原合戦後、満を持して築城した自分の居城が今治城です。
直線を基調としたシンプルな縄張、櫓の効果的配置による鉄壁の防御、
そして層塔型天守の創始となる五重天守の建立など、
この城の革新性や特徴を挙げればキリが無い程の名城でございます。
御多分に漏れず、明治維新でいったんは破却の運命を辿った城ですが
近年、城郭復元ブームに先行していくつもの櫓、それに天守を再建しています。
ところがその天守、小倉城と同様に…ありもしない余計な破風を追加!
しかも本来は本丸北隅櫓が建っていた所に揚げてしまい
大きさやバランスもおかしなヒョロヒョロの天守に。
天守というより、中途半端な五重塔?
もしくは電波塔?のようなシルエットになっていて、
(それもまぁ、個人的には嫌いではないんですがwww)
これでは築城の神様である高虎公には顔向けできない様子なんですわな。
そこでこの城も、合成写真で本来の姿に戻してみました!
今治城復元整備の現状
今現在の今治城復元整備状況。
パッと見、悪くは無いんですが
天守の上層が異常に細長く、しかも
ありもしなかった破風がいくつも。
そもそも、この天守が建っている場所は
北隅櫓が置かれていた場所だったので…


今治城 合成写真
合成写真で天守の姿を元通りにし
本来あったと言われる本丸中央部に移設。
天守を退かして空いた場所には
ちゃんと北隅櫓を復旧させました (^-^)


なお、天守は藤堂高虎の献策により
後年、丹波亀山城に移築されたと伝わるので…

現在の丹波亀山城址
丹波亀山城址にも

丹波亀山城 合成写真
使い回せるのでありました(爆)
(チョー手抜きwww)







★その六
尼ヶ淵は全然アマくない!

6番目は六文銭ゆかりの城、長野県上田市の上田城を採り上げてみます。
が、こちらは城に手を加えるのではなく、城の立地に手を加えた画像。
上田城 尼ヶ淵の現況上田城 尼ヶ淵の現況

鬼謀の天才・真田昌幸が築いたこの城は、千曲川の河岸段丘を活用し
徳川の大軍を2度に亘って撃退した輝かしい戦歴を持つ堅城。
江戸時代になると「徳川の天敵」である真田の城はいったん破却されますが
後に入った仙石氏の手で復興され、現在に至ります。とは言え、
近代の市街地化によって少なからず改変された点もあり、特に治水対策で
千曲川の流路が大きく変えられた事で、当時は「尼ヶ淵」と呼ばれていた
川に面する崖の部分は現在まったくの公園となり、
城の防御の“キモ”だった要害ぶりは、一転して実に穏やかな表情へと変貌。
しかしせっかくの名城に想いを馳せるならば、やはり尼ヶ淵の様子を再現し
大河に守られた天険の要塞を目にしてみたいもの…という事でこれ!
上田城 尼ヶ淵合成写真上田城 尼ヶ淵合成写真

仙石氏によって再建され、昭和になって移築→再移築で復旧された
上田城南櫓の直下に急流を流してみました。真田時代の尼ヶ淵も
恐らくほぼ同様だったと推測できます。こんな濁流が行く手を阻んでは
川を渡ってこの城を攻めるのは無理!と、すぐに諦めたくなります(苦笑)
いやぁ、流石は真田昌幸。甘く見てると痛い目を見ますなぁ (T-T)





★その七
犬山城天守を、元の「大櫓」に逆戻しw

国宝 犬山城現存天守国宝 犬山城現存天守
国宝4天守の一つ、愛知県犬山市の犬山城天守です。この天守、創建について
金山城(岐阜県可児市)からの移築など諸説唱えられておりましたが
昭和30年代の解体修理によって「移築の痕跡が無い」事が証明され
どうやら、元来は2層目までの「大櫓」であったものを
江戸時代に入ってから上層部の望楼を増築し「天守」に改変したものだと
言われるようになりました。と言う事で、その「大櫓」に戻してみると…
犬山城“大櫓”合成写真犬山城“大櫓”合成写真こんな感じ?
※望楼の増築時に下層部の軒を低く改変したらしいのですが、そのあたりは寸法が分からんので敢えて度外視w

何となく、丹波篠山城の大書院や佐賀城本丸御殿を髣髴とさせる威容。
犬山城天守には城主の“御座の間”となる畳敷きの部屋があります。
この“御座の間”は江戸時代後期の改造で作られたと言うのですが、
こうして“大櫓”に復古してみれば、御殿相当の機能が垣間見え
もしかすると、当時から“御座の間”に似たような部屋があったのでは?とか
想像が(何の根拠もなく勝手にですけどw)膨らんで、なかなか楽しい (^ ^;





★その八
相州党の飽くなき野望?!
幻の“小田原城五重天守案”を実現する!!!


#えぇ、神奈川県民の無謀な暴走ですとも(自嘲w)

天下の名城として知られる小田原城ですが、
戦国時代に日本一の規模を誇った縄張は江戸時代に縮小され
天守も元禄の大地震(1703年)で倒壊の憂き目を見ております。
関東の入口を守る要衝として、幕府は特別に再建を許しますが
それでも三重天守として復旧されたのが関の山。しかも、再建した天守も
明治時代になると薪材として(!)安く売られてしまいバラバラにされ
せっかくの古建築は、歴史の彼方に消え去ったのでありました。
昭和30年代になると、小田原も町のシンボルとして天守復元を目指し
様々に残された資料を折衷した案(+観光用の高欄を追加)
現在の復興天守が建てられたのでございます。
小田原城 昭和復興天守これが現在の小田原城復興天守です

さて、そこで話題にしたいのが「様々に残された資料」という点。
天守を1706年に復旧する際、再建案として図面や雛形がいくつか
用意されたのですが、何とそこには「五重天守として建てる案」の
図面と雛形も製作されていたのであります!
無論、幕府の手前そんな大それた案は実現できる筈もない上に
残念ながらこの雛形は太平洋戦争後の混乱で行方不明になりましたが
幸いな事に、それを撮影した写真は現在に伝えられているのです。
小田原城 五重天守雛形と妻側立面図
小田原城 五重天守雛形と妻側立面図
(小田原市役所アーカイブから参考引用)

平側の立面図は見当たりませんでした…
根っからの神奈川県民としては…是非これを見てみたい!
いやもう、むしろ現在の復興天守を破却してこれで建て直して!!
これだけ整った姿なんだから、さぞかし実現すれば素晴らしい筈…!!!
とまぁ、妄想爆発モードに入りまくりなワケですが
実際にこれを建てるのは無理なんで、せめて合成写真で作ってみよう♪
(ハッキリ言って、この頁のネタはこれがそもそもの始まりでしてw)
ってな感じで作業を開始したものの、良く見れば雛形の妻側と
立面図では、軒唐破風の位置が違う(雛形は四層目、立面図では三層目)。
どちらが正しいのかは、そもそも実現されなかった案なのだから決められません。
故にここでは、妻側は立面図通りに作成し平側は雛形に準じて作成。
全体的には、現状の復元天守と同じテイストでまとめてみました。

斯くして出来上がったのが…ハイこちらっ !!!!! (^ー゚)b
小田原城 五重天守再現写真

ドーン!(笑)
自画自賛なのは百も承知で書かせて頂きますが、瓦の筋目や軒下の垂木まで
きちんと整えて合成した写真なので、高精緻画像でも不良点は一切なし!
そして何より、この天守の形状は美し過ぎ…!!
徳川将軍の権威を示した江戸城天守や元和大坂城天守にも見劣りしません!!!
破却された沼田城天守に替わり、この天守こそ最後の五重天守として
再建して欲しかった―――と、思わず見惚れてしまいました。






という事で、いろいろと合成写真を作ってみました。
まぁ、オイラの拙い技術と機材で製作したものなので
アラを探せばそれなりに出てくるでしょうが
それを言うなら、オイラが出来る程度のモノなんだから
御自身で作り直して下さい、という感じでお見逃し下さい(苦笑)

#本当に、この8ネタは誰か作れそうなモンだと思うんだがなぁ (^ ^;



ちなみに、企画したけど出来なかった没ネタもいくつかありまして

・ 名古屋城古写真(上に出した明治期撮影のヤツ)に着色しカラー化する
  → ウチの機材とテクでは無理 (T-T)

・ 二条城本丸入口の行幸廊下橋を再現
  → やってもあまり面白くなさそう(爆)
     と言うか、古材が残っているから本物で実現できる筈w

・ 弘前城の旧天守(落雷で爆発焼失した五重天守)を製作
  → 旧天守の資料が何も無い あれば本気で作ってみたいのだが

・ 和歌山城天守を五重案で
  → ネタ的に小田原城と完全にカブってるw

・ 藤堂高虎創建の宇和島城天守を作る
  → いや、それは難し過ぎるって(号泣)



どなたか、是非ともこのあたりの題材を実現してみて下さいませ★









★2014.09.28 緊急追記
二俣城の新発見石垣を再現 ?!

静岡県浜松市天竜区、以前は天竜市とされていた場所にある二俣城は
“遠州平野の要”と呼べる地勢から、戦国時代に武田氏と徳川氏が
熾烈な奪い合いをした天険の山城として知られております。この城、豊臣秀吉の
全国統一後には堀尾氏(秀吉子飼の将)が城主として入り大改造を施し
壮麗な石垣造りの城郭へと変貌したとされておりますが、数百年の眠りにつき
山の斜面は土砂に覆われ、現在の城跡に垣間見える石垣は極めて断片的となり
全容を解明するのは甚だ困難な状況になっています。しかし地元の伝承では
「あそこに石垣がある」と今に口伝され、それに基づいて浜松市文化財課が
2014年に発掘調査を行ったところ、いわゆる西曲輪近辺の法面から
見事な石垣が出土!この伝承の正しさが裏付けられました。
天竜川堤防上から現在の二俣城址を望む天竜川堤防上から現在の二俣城址を望む

この当時、二俣城下を流れる二俣川は現在と異なる流路を通っており
まるで二俣城の城山を囲い込むように西向きの流れを成し、城の西面を塞ぐ
大河・天竜川へ合流。上の写真で言うと、眼下にある民家はほとんどが
二俣川の川底に沈んでいた事になります。水運に恵まれた二俣城は
陸上街道のみならず、天竜川水系〜二俣川水系を繋ぐ水上交通の結節点であり
物資の集積・分配地点として大いに繁栄したのです。
(中世、舟運は現代人が想像する以上に高密度で物流を支えていました)
堀尾氏は2つの川の合流点に面する西曲輪を見事な石垣で固め
“水上から豊臣政権の強大さを見せ付ける”事にした訳ですな。
ちなみに大手口や城下町は完全に反対側なので、
そちら側からこの石垣は見えません。白く輝く石垣は、あくまでも
“船頭や廻船商人に”豊臣(堀尾)氏の威光を知らしめる物でした。

斯くして発掘され再び日の目を見た石垣は、2014年9月21日のみ限定で
浜松市文化財課の現地説明会において一般公開されました。
が、調査終了後は遺構保存の為に埋没させる予定だそうです!
石垣を露呈させたままだと、雨水の影響により急激に孕みだし
最悪の場合、崩壊する危険性すらあるのでこの保存は致し方ないのですが
せめて何とか、往時の勇姿を目に見えるようにしておきたい…という事で
頑張って合成写真を作ってみました〜★
二俣城西曲輪を囲う石垣二俣城西曲輪を囲う石垣

石垣直下には「川口集落」と呼ばれる荷揚げの為の建物群が広がり
舟運で運ばれてきた荷物は、ここから石垣の脇を通り二俣城内へ
運び込まれたと推定されるそうです。そこで二俣川の流れと川口集落を再現し
その奥に、見事な野面積の石垣を構築。ただし、それ以外の城郭遺構は
不明なので現状の山と同じ状態にしてあります。なお、二俣城には
本丸跡に天守台石垣があり、これも堀尾時代の整備と見られるので
雰囲気を出すため天守建築を山頂に揚げておりますが、
実際に天守が建っていたかどうかは発掘調査を行っても
その痕跡が確認できないため、不明瞭との事。
まぁ、“天守があったらこんな感じだったんじゃないの?”くらいの感覚で
ご覧いただければ幸いにございます (^ ^;
何はともあれ、川を往く船から見上げる城は立派だったでしょうねぇ…。




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