★★★相州乱波の勝手放談 ★★★
#16 【歴史の悪人を擁護するシリーズその2】吉良上野介 vs 浅野内匠頭
 




吉良義央像 きらよしなか(「よしひさ」とも)
吉良義央。官職名の上野介として呼ばれる事も。江戸幕府の儀式典礼を司る高家(こうけ)
高家の家柄は室町以前の名族末裔から選ばれる事が多く、吉良家も足利一門として名高く
また、吉良家の出身地は徳川将軍家(松平家)の故地・岡崎に近く、戦国時代には松平家と
覇を競った事もある縁から、転じて重鎮として扱われるようになり、高家筆頭とされていた。
いわゆる「忠臣蔵」の敵役とされ、“日本一の仇役”として非常に名高い人物である。


あさのながのり
浅野長矩。官位は内匠頭(たくみのかみ)。広島藩38万石の太守・浅野家から分家した
長重流浅野家の4代目当主。領地は播磨国赤穂(現在の兵庫県赤穂市)5万石。
幼少期に父母を亡くし、わずか9歳で藩主となる。才気煥発と評せられ、山鹿(やまが)
軍学を修める俊才、16歳にして早くも勅使饗応の大役を果たしている。「忠臣蔵」の
題材となった饗応役は、実は2度目の任命という事になるが、先例があっての再任命と
考えられよう。その一方、性格は短気だと伝わり、癲癇の病を持っていたとの
史料が(公式・非公式を含め)いくつか残されている。これが刃傷の原因か?
浅野長矩像


「忠臣蔵」のストーリーは日本人ならば殆どが知っていよう。いちおう、
かいつまんで話をすると、京都の朝廷から江戸城へ下向する勅使を饗応すべく
浅野内匠頭が接待役に任じられ、その指南役に吉良上野介が
当たる事になったが、吉良は浅野に様々な嫌がらせをし、さらに勅使が
江戸城に入る当日、松の廊下で吉良が浅野の陰口を叩いた為、
遂に堪忍袋の緒が切れた浅野は殿中も憚らず抜刀し
「この間の遺恨、覚えたるか!」と叫んで斬りつけたが仕留め損なってしまう。
無念のまま浅野は切腹に処せられるが、対する吉良には何らお咎め無し。
武家社会においては“喧嘩両成敗”が定めであるにも関わらず、
吉良がその後も生き長らえた事に憤った浅野の遺臣らは、
主君の恨みを晴らすべく討入りに…という筋書き。皆さん御存知ですよ、ね?
吉良は“陰険な意地悪ジジイ”、浅野は“無念の涙を呑んだ悲劇の若侍”ってな
関係が完全に固まったイメージになってますけれど―――。

でもそれって、本当に正しいの?というか、
個人的には、全然納得できない! (ー゙ー;
と言う事で、「歴史の悪人を擁護するシリーズ」第2弾として
今回は吉良上野介を思いっきり弁護してみたい。
…いやぁ、吉良以上の悪人って日本人の頭の中には居ないくらいだろうけど!



なぜ吉良が悪人なのか?という要点をまとめてみると、
大きく分けて以下の2つに理由が集約されるだろう。
・浅野に対して数々の虐めを与えた
・武家の常識“喧嘩両成敗”に反し、幕府からの処分がなかった

しかし、これらが本当にあった事実なのか?あるいは、
この成り行きが本当に正しい評価に基づくものなのか?という事については
「忠臣蔵の筋書きがそうなんだから、そうに決まってる」という感じで
全くと言って良い程、疑念が持たれる事はない。然るに、
そうした検証なくして吉良を悪人と断罪できる訳がないし、
浅野に同情を寄せる根拠にはならない筈だ。
そこでこれらについて、改めて確認していくとしよう。


まずは最初の疑問点、浅野に対する虐めとは何なのか?という事について。
忠臣蔵の筋書きでは、色々な無理難題が押し付けられたり、
わざと儀礼に反した指導を行って吉良が浅野に
恥をかかせようとした事になっている。
例えば…
1.勅使が訪れる部屋の畳替え(劇作では300畳分?とか)を一晩でやらせた
2.料理の献立や殿中で着用する礼服をわざと誤って教えた
3.浅野の奥方や寵童に対して吉良が横恋慕した
4.そもそも必要な指導を吉良が行わなかった
5.浅野が用意した饗応の内容を吉良が罵倒した
6.吉良が指南にかこつけて賄賂を要求した
などなど、他にも枚挙に暇が無い程である。

さてそこでこれらを検証してみる訳だが、まずは1や2は
「有り得ない」話である。浅野は冒頭の紹介で記した通り、
忠臣蔵事件の前にも勅使饗応の役を行っていた。
それならば、このような事例については既に知っている筈であり
浅野が吉良から誤報や虚報で惑わされたり騙されるような話ではないし
仮にそのような事で浅野が不手際を為したなら、指南役の吉良とて
責任を問われるので、自らの首を絞めるだけだ。

3については論外で、「忠臣蔵」という劇を成立させる為に
全く別の事件から“吉良が浅野にやったように見せかける話”を
引っ張り出してきただけの事で、これが吉良の仕業だというならば
全くの事実無根、名誉毀損に当たるようなものである。忠臣蔵の話にある
「枚挙に暇が無い程」な吉良の悪事とは、ほぼ全てがこのようなものなのだ。
もはや、いちいち検証する必要もないものなので、敢えて省かせて頂いた。

そこで4になる訳だが、これは時系列順に当時の状況を確認すれば
単なる誤解(いや、それを逆手にとった悪意)で吉良を貶めている事が分かる。
浅野内匠頭が件の勅使饗応役に任じられたのは1701年2月4日のこと。
その時、同時に指南役に吉良が附けられた訳だが、この時点で吉良上野介は
時の将軍・徳川綱吉の名代として京都の朝廷に参内していた。よって、
吉良不在のまま、饗応役と指南役が決定されたのである。そして、勅使が
江戸に入るのは3月11日になる訳で、浅野は都合1ヶ月少々の間に
接待の準備を整える必要に迫られたのだが、吉良が京から江戸に帰ったのは
2月29日になってからであった。即ち、実際に指南が行われたのは
せいぜい10日間程度に過ぎなかった事から、吉良が浅野に「指南しなかった」と
解釈されたのである。しかし、吉良は吉良で朝廷参内の任を行っていた訳で
決して「浅野に悪意を働かせる為」帰らなかったのではない。これを以って
吉良が浅野に指南を怠ったとするのは、むしろ浅野に対する身贔屓が
過ぎると言うもの。そもそも、前述の通り浅野は既に饗応役を
経験済みなのだから、教えて貰わないと「知らない、分からない」では
済まされない話であろう。

5については様々な憶測が飛び交い、どれが真実なのかは分からない。
そもそもこのような事件自体があったのかすら不明だ。ただ、考えられる
話として、当時の経済情勢が元禄バブルにあった事から推察すると
浅野が以前の饗応と同じ程度の支度を予定したところ、それでは
「今(今回の饗応時)の世情では貧相に過ぎる」と吉良が指摘した可能性だ。
或いは「そんな予算では今や成立しない」との話だったのかもしれない。
浅野は5万石の大名、吉良は4000石あまりの旗本。5万石の大名と言うと
国持大名クラスほど統制が厳しい訳でもなく、1〜2万石の大名ほど
家計が苦しい訳でもない。いわば“一番余裕のある”レベルの大名で、
浅野は“贅沢”とまでは言わないものの、世間に疎い
“お坊ちゃま”暮らしだったのだろう。一方の吉良は石高が少ない上
儀式典礼を扱う高家という職務上、何かと金の動きには敏感だった筈。
バブル景気で好況な折、約20年前と同じ予算で事が済むと考えた浅野に
「ダメ出し」をするくらいの事は、むしろあって当然だったと思われる。
それならばこれはまさしく“正しい指南”であるのだから、
この指摘を吉良の意地悪と考えるのは、浅野の逆恨みであろう。

はっきりと事実として認められるのは6の事例である。吉良が浅野に対し
指南の謝礼を要求したのは間違いない。しかし、これまた当時の世情に鑑みて
“悪意の在った要求”とは言えない事を記しておかねばなるまい。
現在の公務員とは違い、当時の武士は“主君(将軍)に対し忠節を尽くす”ため
自らの命も投げ打って事に当たるのが当然。となると、
職務に必要な経費も身銭を切って支払うべきもので、今のように
「必要経費を給与の他に請求」するような事ではなく、自分の俸禄の中から
捻出せねばならない(と言うか、俸禄はそれを含めたものなのである)。
逆に言えば、自らに与えられた職権は自らの裁量で行うのが武士の習いとなり
即ち、吉良が求めた金銭的要求とは「職務上当然に認められる」もの。
高家は儀式典礼の指南を行う仕事なのだから、その対価が発生して当然で
これは悪意のある賄賂ではなく、浅野が支払うべき「授業料」なのだ。
蛇足ながら申し上げれば、そもそも封建時代において
賄賂とは現代人が考えるほど悪徳なものではなかった。士農工商の身分制、
その地位に在る者が、その地位に相応しい方法で対価を得るのは
当たり前の事。商人が自らの商売を繁盛させる為に支配者へ金品を贈るのも、
武士がそれを認可する為に金品を受け取るのも、必要経費というか
当然の代償として認められるべき話なのだ。賄賂が悪行とされるのは
明治以降、近代法制度になってからの事で、それはつまり
「自由」「平等」を理念とする西欧法制度を導入した事で
「金を持っている商人が、金にモノを言わせて利権を得る」
「地位のある支配者が、権勢を振りかざして金品を得る」ような例が
“持つ者と持たざる者”の不平等になるのは違法、とされたから。
(田沼意次の賄賂政治も、こうした点を鑑みるべきなのだが…それはまた別の機会でw)
要するに、吉良が浅野に対して要求した金銭は、当時の社会情勢では
特に問題となるようなものではなかった訳だ。このあたりの事情は
現代の感覚とは全く異なるものだし、それは当然、法制史を考慮して
判断せねばならないものだし、況してや劇作で作られた筋書きが
そのまま正しいと当てはまるものでもないのだ。



という事を考察していくと、吉良の「虐め」とはいずれもが
そのようなものではない、という事になっていくのである。
では次に、殿中での刃傷とその判断について推考していくとしよう。



喧嘩両成敗ならば、何ゆえに吉良は無罪放免となったのか?という事だが
そもそも殿中の刃傷が「喧嘩」だったのかが問題であろう。要するに
両者が抜刀して斬りあったのならば、間違いなく喧嘩である。しかし
この事件において、吉良は抜刀などしていない。それどころか、手向かいもせず
何とか切りかかってくる浅野から逃げるだけに徹していた。となればこれは
浅野の一方的な行為でしかなく、吉良に落ち度と言えるものは無い事になる。
幕府の裁定が「吉良にお咎めなし」となったのには、相応の理由があるのだ。

浅野が斬りかかる際「この間の遺恨、覚えたるか!」と叫んだ事で
抜刀の有無に関わらず、両者に諍いがあったと考える向きもある。
しかし前段の検証で、少なくとも吉良にそのような問題はなかった筈だ。
では、浅野の叫んだ台詞とは一体何なのか?
この文言は「忠臣蔵」の劇作で作られたものではなく、松の廊下に居合わせた
梶川頼照(かじかわよりてる)なる者が日記に書き記したもの。
つまり、事件の証人が書き留めたものである。よって、浅野が
吉良に対して恨みを募らせたという客観的証拠となるのだが…実はこの日記、
改竄の疑いが極めて強いのである!
日記記入当初の文言では、浅野を羽交い絞めにして組み伏せ
凶行を押し止めた梶川は、吉良から離す為にそのまま浅野を別室に押し込め
そこで「何故このような事をしたのか?」と問うたとある。その答えは
「何が何だか、自分でも良く分からない」というものであった。
ところが、松の廊下の事件が世間に流布し、浅野遺臣が吉良へ討ち入るとの
噂が現実的になってきた頃、梶川はこの記述を破棄し、改めて
「この間の遺恨〜!」を書き加え、浅野への問いかけについても
「御公儀(将軍)への恨みは何らないが、ただ吉良には憤積があった」という旨の
答えに書き換えている。これは、初稿の日記を見た者の証言があり
後に残された日記との差異があった事は間違いないようだ。となれば
やはり浅野が吉良と争った様子はなく、吉良に“両成敗”は適用できまい。

さてそうなると、浅野が吉良へ切りかかった真相は何なのか?
史料を紐解くと、浅野には癲癇の病があったという記録に突き当たる。
短気だったという性格もあり、何かの拍子に癲癇の発作が起き
頭に血が上った浅野が、意識朦朧としたまま刀を振りかざしたと考えられる。
現代でも、癲癇の症状を持つ者が運転して
通学中の児童の列にクレーン車を突っ込ませた事故や、観光客で賑わう
京都の繁華街の中、突如車を暴走させ自分も事故死した事件が記憶に新しい。
もちろん、癲癇の患者が全てそうした事件を起こすなどと言うつもりは無いし
真っ当な生活を送られている方が大半であるが、不運にも病気の発作で
そうした事件が発生するのは、事実として有り得る事であろう。浅野内匠頭も
梶川の問いかけに「何が何だかわからない」と答えていた事から、恐らくは
突然の発作で殿中にも関わらず抜刀、吉良に斬りつけたと考えるのが自然だ。

事件当時、吉良上野介は数え年で61歳。浅野内匠頭は同じく35歳。
還暦を過ぎた老人に、働き盛りの壮年が、しかも背中から
斬りかかっておきながら致命傷を与えられないなど、普通に考えて
異常な話である。さらに振り返った吉良へ頭から2撃目、倒れた肩に
3撃目・4撃目まで打ちこんでなおも負傷させただけとは、仮にも
武芸を生業とする武士が、それだけしか出来ぬなど有り得ないだろう。

最近、事件当時の松の廊下がどのような状態だったのかを検証する
TV番組が放送された。それによれば、当日の天候は曇天で日の光は射さず
しかも、時代劇で描かれるような開放的な廊下ではなく、
本来の松の廊下は、庭に面した部分を戸板で締め切っていた為
その場は人の顔も判別できないような暗がりだったとの事。この為、浅野は
吉良に気取られる事無く背後に近づけた一方、間合いを取るのが難しく
致命傷を与えられなかった、という結論を導いている。確かに、吉良が
不意打ちで斬られるにはそうした状況が大きく関わっていたであろう。
しかし、間合いが云々という事については、納得できない点が多すぎる。
浅野が刃傷に用いた刀は儀礼用の小刀で、現在でいう切出ナイフ程度の
ごくごく小さなものであった。暗がりであろうとなかろうと、否
暗がりであれば猶の事、こんな小さなナイフで斬りかかろうなどと言うのは
“本気で相手を殺そうと思っていた”のであれば、考えられない話である。
もし仮に読者の皆様方がそんな小さな武器で相手を殺す必要があったとしたら
(いや、そんな想像は普通しませんが、仮にの話でw)
背後から近づけたのだから、相手の背中(心臓のあたり)に「突き刺す」のが
当然なのではないだろうか?怨恨殺人であればある程、警察の遺体検証では
相手に対して何度も何度も凶器を突き立てる傾向があると言われ、しかも
その刺し傷は深く強烈な痕跡を残すとされる。ところが浅野の犯行は
全く違う様相だ。松の廊下の事件、そんな小刀を闇雲に振り回した所で
相手に怪我を負わせる事は出来たとしても、殺す事など出来ないのは明白だが
このあたりも、浅野が“正気ではなかった”様子を物語っていよう。
殺意があった訳でも、怨恨を募らせた訳でもなく
浅野内匠頭は、何かの発作で刀を振り回し始め、それが近くに居た
吉良上野介の背中に当たってしまったというのが真相なのではないだろうか。


※ちなみに
吉良は斬りつけられた時、梶川と対面して打ち合わせの会話をしていた。
(この様子が、忠臣蔵では「浅野の陰口を叩いていた」という事にされている)
吉良が浅野に背を向けていたという事は、対する梶川には吉良の向こうから近づいて来る
浅野の姿が見えた筈だ。もし仮に、忠臣蔵の劇にある通り浅野が「この間の遺恨〜!」と
叫びながら刀を真上に振り上げて来たならば、否が応にも梶川はそれに気付いて
斬りつける前に制止したであろう。しかしそうならなかったのは、浅野が叫ぶでもなく
梶川からは暗がりで何をしているか良く分からない様子だったからで
よもや斬りかかって来るとは思えない=精神混濁でフラフラと歩いて来ただけ、という風にしか
見えなかったからと推測できる。つまり、やはり浅野は「確実に吉良を殺すつもりで突進してきた」のではなく
癲癇の発作で「まるで酩酊状態のように、何だか訳の分からない動きをしていた」のだ。



「殿中で刃傷」という情報が流れた途端、世の中では
“喧嘩が起きた””ならば両成敗だろう”という勝手な憶測が飛び交った。
ところが吉良はお咎め無しだった事から「そんな莫迦な」という世論が
否応なしに醸成され、吉良が一方的な悪役にされてしまったのだろう。
梶川が日記を改竄したのも、こうした空気に流され
本来あった事実から、浅野に肩入れする記述に変えたのだと推測できる。
吉良の領国は三河国幡豆郡、そこでの統治は民を思いやったもので
今でもなお、吉良の殿様は名君だとして思慕されている。一例を挙げると
吉良領では大雨が降る度、隣接する西尾藩領からの大水が流れ込み
田畑を水没させる水害に悩まされていたというが、吉良は私金を投じて
西尾藩との境界に堤防を築き、洪水の害を防ぐ事に成功したと言う。
以来、吉良の田畑に豊穣の黄金色をもたらしたこの堤防は黄金堤と呼ばれ
吉良上野介の人徳を讃えるものとして現在にまで残されている。
「忠臣蔵」で作り上げられた悪人のイメージは、全く以って事実無根なのだ。
黄金堤の前に建つ吉良上野介像
しかし、日本人の固定観念となった“吉良上野介=悪人”というイメージは
なかなか払拭する事ができず、黄金堤の話でさえ
“水害を西尾藩になすりつけた”とし、吉良は“自分の領地の事しか考えない”
自己中心的な「偽りの名君」だと蔑む向きがある。しかし、これも弁護すれば
吉良は堤を造成する前、西尾藩に対してその許可をきちんと求めている。
もちろん、水の逃げ道を塞がれる西尾藩は良い顔をしなかったのだが、吉良は
「期間を決めてその間に堤を作り上げ、完成しなければ諦める」
「仮に堤が決壊しても、二度と同じものは作らない」という約束をした為
西尾藩も許可を出したらしい。西尾藩としては、小領の吉良家が
そんな無理な約束で堤を完成させられる筈がない、とタカをくくったのだろうが
水害対策を熱望していた吉良の領民は我先にと工事に参加し、予定通りに
堤防が完成した。また、熱意が通じたのか決壊するような事もなかった。
やはり吉良の殿様は、領民の心をまとめ上げる名君だったのだ。然るに、
約束を認めながら黄金堤を「自藩の邪魔になるもの」と逆恨みした西尾藩こそ
武士の風上にも置けぬ非道な話である。いや、西尾藩が直接的に
そう流布した訳ではないにせよ、そんな話を真に受けて吉良を
「偽りの名君」などとするのはやはり「忠臣蔵」の固定観念から脱却できない
“頭の固い”悪習であろう。もし西尾藩が黄金堤に不満があったとしても、
自分の領地の治水対策をすべきであって、そうしないのは責任を相手に
押し付けるだけの不手際でしかなく吉良上野介が悪いのではない筈である。
もっと冷静に、そして客観的に善悪を判断する事が必要なのだが
「忠臣蔵の吉良」というだけで、どうやらそうはならないようだ。
全く以って、吉良上野介という人物は浅野に傷つけられ、赤穂浪士に殺害され、
日本人の観念からも真っ黒に塗り潰される生来の“被害者気質”に
生まれ付いてしまったとしか言いようがない。不幸な星の下に生まれた吉良に
何とか汚名返上の機が訪れる事はないのだろうか?
歴史の悪人は、必ずしも本当の悪人ではないのである。




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