★★★相州乱波の勝手放談 ★★★
#15 【歴史の悪人を擁護するシリーズその1】犬公方 vs 水戸黄門
 




徳川綱吉像 とくがわつなよし
徳川綱吉。江戸幕府3代将軍・徳川家光の4男。将軍の子ではあったが、末子の為
本来は将軍職の継承などありえず、上野国館林(群馬県館林市)25万石の藩主として
養育された。一藩主(つまり将軍の家臣)として領国経営にあたるべく、彼は幼少期から
治世に必要な学問を叩き込まれ、これが故に後々「学者将軍」として自身の行動規範を
確立する事になる。館林徳川家の創設により“館林宰相”の尊称を与えられた綱吉は
長兄である4代将軍・徳川家綱が嗣子無く病没した事により、急遽将軍職を相続。
この時、時の大老・酒井忠清
(さかいただきよ)は徳川の血を廃し、京都から宮将軍を
迎えんとしたが、老中・堀田正俊
(ほったまさとし)がそれを留め、綱吉の将軍継承が
成ったという。5代将軍となった綱吉は儒学に基づく清廉な政治を志向したが、潔癖が
行き過ぎた為に天下の悪法とされる「生類憐みの令」を発布し“犬公方”と揶揄される。


とくがわみつくに
徳川光圀。諡号は「義公(ぎこう)」。水戸徳川家初代・徳川頼房(よりふさ)の3男。他に
兄が居たが、それを差し置き父の意向(と言われる)により水戸徳川家の世子とされ
2代藩主になる。若年の頃は遊郭通いや辻斬り(!)など“素行不良”の人物だったが、
18歳の時、司馬遷の「史記『伯夷伝』」を読んで感銘を受け、以後は行いを改め
学問に精進するようになった。この為、水戸藩は藩を上げて学問研究に邁進し
「水戸学
(みとがく)」と呼ばれる独自の学術大系(および治世方針)を大成するようになる。
史書「大日本史」編纂の歴史研究は明治まで引き継がれた程の長期研究で有名だ。
学問を以って国を統治した政治手法は、名君として光圀の名を上げ
講談・時代劇などで創作された“正義の味方・水戸黄門”のイメージの基となった。
徳川光圀像


この2人、同時代の人物である。そして時代劇などでは、必ずと言って良いほど
「無茶な悪政をする犬公方」に対し「敢然とそれを諌める黄門さま」という形で
両者が対比される。つまり“綱吉=バカ殿”“光圀=良識人”という構図だ。
綱吉は絶対的な悪人で、光圀はそれと戦うヒーローなのである。

でもそれって、本当に正しいの?というか、
個人的には、全然納得できない! (ー゙ー;
と言う事で、今回から何度か「歴史の悪人を擁護するシリーズ」として
想像だけで日本人に植えつけられた固定観念に反論を挙げてみたい。
…いやぁ、随分と長い前フリだ(苦笑)



冒頭のプロフィールを読んで頂くと、この両者
実は同じような人物像である事に気付いて頂けるだろうか?
どちらも「本来は跡継ぎでない立場」でありながら
何の因果か後継者に据えられ、それを全うする為に「学問」を武器とし
統治の基本理念を明確にしているのである。水戸藩主となった光圀は
“江戸時代前期の4名君”に数えられており、綱吉もまた将軍就任当初は
“天和(てんな)の治”と呼ばれる善政で幕政を改革していた。


※江戸時代前期の4名君
他の3人は金沢の前田綱紀(つなのり)・岡山の池田光政(みつまさ)
会津の保科正之(まさゆき)。綱紀は改作(かいさく)法と呼ばれる手法で
藩政を改革、光政は農政・人材育成に力を入れた賢君、正之は
文治政治を推進し幕府の大老職(相当)まで務めた知恵者である。
個人的には、この3人と光圀を同列にするのはどうかと思うのだが…。
詳しくはもう少し下段で (^ ^;

※天和の治
綱吉は将軍就任時の力添えをした堀田正俊を抜擢。この正俊、
非常に優れた農政官僚であり、学問による治世(つまり文治政治)を推進した
綱吉との相互作用で、全国の農村改革を見事に成し遂げた。孝行の奨励、
相互扶助の顕彰(人助けをした駿河の農民を年貢免除としている)、
怠惰な代官の更迭などにより農業生産は一気に向上し、綱吉政権の前半は
幕府財政が黒字好転した事実がある。つまり、綱吉は決して愚君ではないのである。



基本的な事から掘り下げてみる。なぜ学問による統治を行う事が賢君と
持て囃されるのであろうか?もちろん、現代人の感覚ならば
国の統治には高い学識が必要であるのは当然と言えよう。
しかし、時は17世紀後半。
戦国乱世を統一し、江戸幕府が成立してからも暫くは“武断の時代”が続いた。
初代将軍・家康から3代将軍・家光の頃までは、大名間の大乱こそ収まったが
徳川将軍家による専制政治を確立すべく、幕府は諸大名の取り潰しを画策し
逆に大名らも、幕府に付け入らせない為の方策に苦心する“戦々恐々”とした
時勢だった訳で、4代将軍・家綱の時代になってようやくそれが転向し
“文治の時代”へと変革していったのである。つまりそれまでは
幕藩体制が成立していても「力による統治」「武力の維持」を求められたのが
やっと「平和な時代への転換」に切り替わりつつあった状況なのだ。
光圀や綱吉は「知識人大名(将軍)」の先駆者であるが故、
時代をリードする賢君に数えられるようになったのである。
(逆に言えば、未だ「頭よりも腕っぷし」という考え方をする者も残っていた)

では、共にそうした賢君である綱吉と光圀が
方や「バカ殿」他方「ヒーロー」になってしまうのか?
それはやはり“生類憐みの令の発布とその対応”
この一点で差異が生じるからであろう。

ではその「生類憐みの令」についても改めて考え直してみる。
一般に知られている「生類憐みの令」とは、綱吉が
過剰な動物愛護の命令を出し、特にそれが犬に対して顕著で
人間よりも動物を優先するかのような内容であった事から
“天下の悪法”として名を残してしまったものだ。
ところがこの法令、例えば現代の「民法」とか「刑法」のように
ある1つの法令を指したものではない。綱吉が文治政治を進める中
少しずつ“動物愛護に関する対応事例”を命じていき、それらを総称して
「生類憐みの令」と名付けているのである。そしてその発布は、大半が
幕府の老中が「こういう場合はどうすべきか?」と綱吉に問い
その答えを(ある意味バカ正直に)そのまま「将軍様からのお達し」として
民に公布していったという経緯がある。


ここに「生類憐みの令」を悪法と断罪する大いなる誤解の原因がある。


前述の通り、綱吉治世の前半は天和の治とされる善政にあった。
ところが、綱吉の“右腕”どころか“両腕”とまで言えた堀田正俊は
1684年、事もあろうに江戸城中で暗殺されてしまうのである。その事件は
将軍の執務室に程近い場所で起きた為、事件以後は将軍の安全を図るべく
老中の閣議室と将軍の執務室は遠く離されるようになり、将軍と老中の間は
側用人が取り持つようになった。
正俊の死に続き、綱吉は愛児・徳松までもが病で帰らぬ人となり
彼らの損失を挽回させるかのように、いよいよ学問による“厳格な政治”を
追求していく。その一方、将軍の言葉は全て側用人が取り次ぐようになった為
老中らは、“綱吉の顔が見えない政治”に暗中模索する時代となっていく。
結局のところ、生類憐みの令とは「将軍の機嫌を損ないたくない」老中らが
完璧に理想的な統治を求める綱吉に対して
「生き物を大切にするとは、どうすれば良いですか?」と
事細かに(時に有り得ないシチュエーションまで)具申した結果
積もり積もった“誤解の産物”だったと言えよう。綱吉とて、
訊かれたから答えただけの事であり、それがそのまま法令として
庶民の生活をがんじがらめにするとまでは考えていなかっただろう。
(自分は素晴らしい理念を国民に指導している、と思っていただけの事)
また、側用人による「伝言ゲーム」が発生した事も想像に難くない。
生類憐みの令とは、発布した綱吉が悪いというよりは
それを運用する官僚側が融通を利かせなかった事が“悪法”たらしめたのだ。


近年、西欧の歴史学者・政治学者から
綱吉の生類憐みの令は「世界に先駆けた動物愛護法令だ」と再評価され
それに伴い、国内の歴史学者からも綱吉政権の再検証が行われている。
とは言え、個人的にはこうした考え方には必ずしも賛同できない。
西洋の法制度とは「自由・平等・博愛」を基本とした理念であるが
江戸時代の法制度(あるいは綱吉の思考)はそれらと全く無縁であるからだ。
もし綱吉に「自由・平等・博愛」について問うても
「何じゃそれは?」と一蹴されるだけであろう。江戸幕府の統治体制は
「武家による、“士農工商”の身分制を基にした、抑圧的政権」なので
どこから見ても「自由」でも「平等」でも「博愛」でもない。
では何故、綱吉はこのような法令を出したのか?が問題である。
先に記した「頭よりも腕っぷし」という考え方をする者も残っていた、という所が
まさにこの答えであろう。元禄バブルで金満商人が世を牛耳り、
あるいはカブキ者が威張り散らして往来で好き放題の狼藉三昧、はたまた
まだまだ乱世の習いを捨て切れず辻斬りなどの乱暴を働く悪習があった。
(何せ「4名君」の光圀でさえ、辻斬りの前科者である)
こうした“世の乱れ”に、学者将軍が「敢然と立ち向かう」べく
「殺すな!大人しくしろ!秩序を保て!」という文治政治の極みとして
発令した法律が「生類憐みの令」なのだろう。ならば、この法令は
結果として行き過ぎた抑圧にはなったが、全国民の意識改革を求める上では
まさしく効果的な法令だったと言えるし、綱吉の時代を経ることによって
日本人から“戦国の悪習”を完全払拭が達成されたのだから、
そうした点を踏まえて、綱吉政権の再評価を行うべきであろう。
“開拓時代”の自己防衛を理由に、今でも銃規制が行えないアメリカに
もし綱吉のような(強権的ではあるが)意識改革者が居たら、
銃犯罪の悲劇はもっと減ったのではないか…とは飛躍し過ぎか? (^ ^;





では他方、水戸の黄門様の政治について振り返ってみよう。
水戸学は愛民の学…という理念がある為、善政が敷かれたと思われがちな
水戸藩政である。しかし「大日本史」の編纂事業で全国各地へ調査員を派遣し
(こうして藩士が全国行脚したのが“漫遊記”の元ネタである)
さらに膨大な史料を整理・再編集する為の人員や施設も必要とされ
水戸藩の財政は火の車であったという。これが故に、前藩主・頼房の時代から
六公四民ないし七公三民という高率であった水戸の年貢率はさらに引き上げられ
一説によれば八公二民という超高率にまでなっていたという。また、
藩士の俸禄借り上げ(要するに、給料削減)も他藩が江戸時代中期〜後期に
行うようになったのに対し、水戸藩では既に光圀の時代から始まっていた。
学問研究で真っ赤っ赤になった水戸の赤字財政は、それを補填する為に
藩士や領民に多大な犠牲を強いていたというのが実情らしく
この時代、水戸藩内では頻繁に百姓一揆が発生していたのも注目すべき。
綱吉は天和の治において、必要に応じ年貢の減免すら行っていたのに対し
光圀の領国統治は、必ずしも「4名君」の名に相応しいものとは言えないのである。


※○公×民とは
収穫を10等分した際、○割を公、つまり領主に租税として差し出し
残り×割が民の手元に残る、という言葉で表した租税率の表現。
五公五民なら税率50%、六公四民は60%という意味になる。
江戸時代の平均的年貢率は、六公四民から七公三民と言われるが
これは幕末まで含めた全期間の平均値である為、
江戸時代初期の時点で七公三民はかなりの高率。

※全くの余談ではありますが
これは巷説ですが、この当時の水戸徳川家はいわゆる“御三家”には含まれず
将軍家(徳川宗家)・尾張徳川家・紀伊徳川家で“御三家”とされた為、それを僻んだ光圀が
「将軍家が何だ!武士は皆、天皇家の臣でしかない!水戸家も宗家も同格だ!」として
“天皇家を本流とする”史書の編纂に着手した、という説があります。
だとすれば、光圀の歪んだ妄想に端を発した水戸の苛政とは…何たる悲劇でありましょう。
綱吉の学問への傾倒は、純粋な知識欲・自己規律に基づくものでしたが
光圀の史書研究は、果たして如何なるものだったのか?その後の水戸藩が
勤王を国是とし、最後には幕末の騒動まで引き起こしているのだから
案外この巷説は、ヨタ話ではなくそれなりに信憑性があるのかも???



さてそこで、光圀と生類憐みの令の関係である。
幕閣が直言を差し控える中、光圀は綱吉に対して苛烈な憐みの令は控えるべしと
物申し、これが“水戸黄門”の英雄譚に繋がったという。これはまぁ、
“庶民派”である光圀らしいと言えばらしいので良いとする。
(何たって吉原通いをしてたくらいなので、藩主となった後も“悪友”との付き合いはあったのだろうw)
実は他にもエピソードがあり、光圀が隠居所で飼っていた鶴を
付近の農民が密かに捕らえて食べてしまい、「生類憐みの令」に照らせば
死罪に処すべき所だったのを、光圀は無罪放免に許し
綱吉に対して暗に「憐みの令」への反感を示唆したという話がある。
天下の将軍の威光もものともせず、庶民を助けた光圀こそ
天下の副将軍、さすが黄門様だと拍手喝采が送られたというのだが…。


いや、ちょっと待て!


そもそもその農民は、何ゆえに光圀が飼っていた鶴を食ったのか?
問題の検証点は、無罪放免にした所ではなく原因の希求にあるべきであろう。
どう考えても、この農民は食うに困っての犯行だったのだろう。
何せ「八公二民」の年貢率、農家に食料の備蓄などある筈もない。
ましてや「光圀が飼っていた鶴」と知っていて狙ったのだから
“暴政を敷く殿様へのあてつけ”という意味も籠められていたかもしれない。
となると、光圀が名君だなどという説は根本から瓦解する事になる。
水戸黄門の話って、もちろん架空の講談ではあるが
それだけでは済まない、大変な「論理のすり替え」で構成されているのでは―――?

無論、実際には光圀による善政(の片鱗)もあったのだろう。
しかしこうして再検証してみると、綱吉が「誤解を重ねて」バカ殿に貶められ
光圀が「勝手な空想で」正義の味方に祭り上げられていったようにしか思えない。
まぁ、光圀を講談の“黄門様”として楽しむのはそれで良いとして
とりあえずは、綱吉についてはもっと正当な評価をすべきであろう。
歴史の悪人は、必ずしも本当の悪人ではないのである。




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