★★★相州乱波の勝手放談 ★★★
#14 関ヶ原西軍が明治維新を成し遂げた?
 




最近の歴史コンテンツ(特にバラエティ系のTV番組とかね)で良く言われるのが
「関ヶ原で負け組になった西軍が、250年の時を経て
 恨みを晴らし明治維新を成し遂げた」という話。維新を主導した
薩摩(鹿児島)・長州(山口)はいずれも関ヶ原合戦で西軍に与して敗れた
島津氏(薩摩)・毛利氏(長州)の国だから、という説ですな。
(どーでもいいけど、なぜ「長州」に対して「薩州」と言わないんだろうw)
確かに出自を見てみればその通りだし、祖先の恨みを250年後に
見事晴らしたと言うならば、何とも天晴れな話として盛り上がる。
でもこれって…本当に正しいの? (ー゙ー;

※全くの余談ですが
基本的に、日本の旧国名はほぼ全て「○州」とも表現できます。
例えば、剣豪・宮本武蔵の名乗り「作州牢人」(作州=美作国)
忠臣蔵で有名な赤穂浪士の「播州赤穂」(播州=播磨国)などなど。
この頁の表題も「相州乱波の勝手放談」(相州=相模国)ですし
あまり聞き慣れないながら「武州」(武蔵国)「摂州」(摂津国)「雲州」(出雲国)とかもあり。
「遠州灘」とか「甲州ワイン」「信州そば」なんてのは良く使われますしね。
(それぞれ遠江国・甲斐国・信濃国ですな)
上下・前後に分かれている国ではまとめた形で「総州」(上総国・下総国)
「越州」(越前国・越中国・越後国)という表現になります。
でも上野国は上州、下野国は野州と分かれますがwww
「長州藩」という言葉は良く使われるんですけど、それに対するなら
薩摩は「薩州」という表現を並べるべき?とか考えてしまったり
そもそも「長州藩」と言いつつ、長門国だけでなく周防国も領国なんだから
「防州」はどこへ行ったんだ?とかくだらない理屈で悩んでみたり…(核爆)




毛利氏は関ヶ原直前、中国地方9ヶ国に跨る約120万石の領地を有していた。
ところが敗戦により防長2ヶ国、36万石の所領に激減されてしまう。減封前の
実高(名目上は120万石だが、実際の収益高は)200万石超と言われるので
(36万石というのも公称で、実高はもう少しあったようだが)およそ5分の1にまで
収入が減った事になる。取り潰されなかっただけマシではあるが、
これでは生活が立ち行かず、江戸時代を通じて毛利家中で
徳川幕府への不満を募らせていたのは確かなようだ。
従来の兵数を養えなくなった毛利氏は家臣に暇を取らせ
下級武士らは旧領から新領へと転居したものの、帰農を余儀なくされたと言う。


こうした事情から長州藩では立藩以来、新年慶賀の儀式において
家臣から「今年こそ徳川打倒を」と諮り、それに対して藩主が
「まだ時期尚早である」と諌め、関ヶ原敗戦の屈辱を忘れなかったと伝わる。
また、幕末に農民や町民の分け隔てなく兵士を募集し結成した「奇兵隊」が
倒幕の原動力として重きを為した訳だが、その隊士の出自を遡れば大半が
帰農した元藩士であり、いずれも徳川打倒の士気が高かったとされる。
こうした通説が「長州が関ヶ原の仇を返した」とする論拠となっているようだ。





しかし減封は必ずしも毛利家(の当主)にとって不利益だけではなかった。
豊臣秀吉の全国統一過程や天下一統後の豊家専制領地分配により
ほとんどの戦国大名は近世大名への変貌を遂げた。戦国大名と近世大名の
差異は数々あるが、その一番重要な点は家臣団を“上意下達”の形で統制し
大名(藩主)の立場を絶対的上位に置く点にある。また、領地の分配も
大名の一存で家臣に宛がう事が可能となった訳だが、毛利元就が急伸長して以来
家中の大勢に変動が無かった毛利家では、家臣の領地に大名が介入する機会が
未だ無かったのである。領地縮小の大号令により、毛利氏はこの旧習を一掃し
ようやく近世大名化を完成させ得たのであった。また、ほぼ同時期に発令された
一国一城令(いっこくいちじょうれい)により、家中の実力者
吉川(きっかわ)氏の城であった岩国城(山口県岩国市)を破却。
こうした結果は、むしろ“徳川さまさま”と云う具合であり
毛利家は都合よく家中支配を図る好機を得たとも考えられる。

※一国一城令
徳川幕府が諸大名を統制する為に発布した法令で、その大名の持つ領内には
一令制国につき1つの城しか保有してはならないとするもの。そもそも大名は
城を持つ家格があるか否かという時点で厳しい格付けがされており、当然
城持大名でなければ(大半はそうした大名)城を持てない事になるが
残された数少ない城持大名でさえ、基本的には居城以外の城は破却しなくてはならなくなった。
毛利家の場合、長門国と周防国の2令制国を持っていたため
長門国内の萩城(毛利家の居城)と周防国内の岩国城だけは残す事が可能だったが
幕府に遠慮して(これも関ヶ原敗戦国としての立場で)岩国城は廃城にしたとされる。
ところが実の所、岩国城は吉川氏が有していた城であった為、“吉川潰し”を狙い
こうした手法を採ったのである。吉川氏は関ヶ原の折、早くから東軍有利を悟り
徳川に内通、毛利軍の積極的参戦を阻んでいた。この為、毛利家は取り潰されず
減封で済まされた訳だが、当の毛利家から見ると吉川家が裏切ったようにしか見えず
意趣返しとして一国一城令を楯に岩国城を破城させたのである。なお、毛利宗家と
分家である吉川家の対立は以後も江戸時代を通じて続き、その都度毛利宗家は
「幕府の威光」を理由にして吉川氏の要望を退けている。関ヶ原で負けたとは言え、
毛利家はしたたかに徳川の支配体制を活用していたようだ。


先に記した「徳川打倒」の新年儀式も、よくよく考えてみれば
本気で倒幕を狙っていたなどとは到底思えない。仮にそうだったとすれば
幕府の目付に格好の改易口実を与えるだけで、愚策の極みと言えよう。
幕藩体制の成立期(いわゆる「武断政治」の時代)には
謀反の「噂」や「疑い」と見られるだけで取り潰された家があったのだから
もし毛利家が毎年毎年こんな事をやっていたら、お先真っ暗である。
この儀式は「今年こそ徳川打倒を」という前段に意味があるのではなく
藩主が「それはならぬ」と禁ずる後段にこそ意味があったと考えられる。
それをする事により、どこで見ているか分からない幕府の間者に
「毛利は当主自らが幕府に忠誠を尽くしている」と思わせ
むしろ改易の危険性を減らそうとしていた、という方が自然だ。
よって、この儀式は逆に
「倒幕などしない」という証だったのではなかろうか?
口上の文面も、字面通りに「倒幕」「否」と解釈するのではなく
「お殿様〜、徳川に負けて俺達ひもじいッスー!」「我慢しろ!」みたいな
内容と判断したほうが納得できるのでは…(↑かなり現代語訳w)

#そもそも、毛利家の現当主曰く「あんな儀式は巷説で実際にはなかった」との事だし(爆)
  もしやっていたとしたら、1867年・1868年の儀式も「時期尚早」だったんかいな?
  んな訳ゃないよねぇ??


結果として、そんな儀式を250年間やってたら(と仮定して)
たまたま本当に倒幕する機会が「きちゃった」
ってのが真相なんじゃない? っつーか、もし本気で倒幕狙ってたとしたら
250年も待たずに兵を挙げる機運は何度も起こったんじゃないの?



何ともマユツバ的な新年行事の話題と並んで、毛利家に伝わるのは
太祖・毛利元就の遺言「天下を望む事なかれ」が有名。
(むしろこっちの方が広く知られているはず…)
安芸の一豪族に過ぎなかった毛利家を、中国地方全般を支配するようにし
圧倒的な才能を示した元就は、同時にその行く末すら見えていたようで
これ以上の領土拡大、ひいては天下を狙うなど
敵を増やすだけで毛利家の安泰には繋がらないと指し示したのである。
今の領地で十分なのだから、天下への野心など望んではならんと厳命したが
孫の毛利輝元は関ヶ原で西軍総大将に担ぎ上げられた挙句、大減封。
見事に元就の国家プランを台無しにしたのである。
元就の懸念は的を得ていた事になり、江戸時代の毛利家は
それを反省する為にこの遺訓を語り継いだ筈。
偉大なる太祖の遺言を「無かった事」には出来ないしね(笑)
だからこそこの話は現代にまで引き継がれてきたのであろう。となれば、
やはり毛利家が倒幕を250年間ずーっと狙い続けたなんて事は無かった筈。
そもそも倒幕運動を起こしたのは大半が長州藩の「下級武士」で
藩の上層部(特に藩主)はそんなこと思っても居なかったのに
偶然にも?運良く??明治維新は出来ちゃった…というだけで
それだって、一つ間違えれば藩が滅ぶ危険性だって十分あっただろう。
(禁門の変や2度の長州征伐、下関戦争とか、幕末の長州藩は危ない事ばっかり…)





他方、薩摩についてはもっと話が簡単。ズバリ言って、250年間
倒幕する気なんか全っ然なかった筈。
そもそも関ヶ原で西軍に付いたのは成り行きで、本当は家康と通じて
東軍に味方する予定だった。諸々の手違いで西軍に変わり、
さらには“敵中突破”の離れ業で徳川軍を恐慌に陥れたが
戦後、そうした“諸々”が勘案されて結局「本領安堵」お咎め無し。
多少のしこりはあっただろうが、基本的に島津家が
徳川幕府へ250年も怨嗟を募らせるような事はなかったのである。
むしろ琉球の密貿易を幕府から黙認されていたりもするし
島津と徳川は友好的関係にあったとさえ言えよう。


※宝暦治水事件
そうは言っても徳川幕府の外様統制策の対象に島津家も含まれており
(一応は関ヶ原の敵対勢力、しかも全国有数の大藩であるからして当然である)
幕府が命じる“手伝普請”の役を数々背負わされていた。江戸時代初頭の
天下普請(徳川将軍家関係の城郭を作る工事に動員される事)に始まり、
幕府要地の都市造成や開拓事業、治水工事などである。その中でも特に
宝暦年間(1751年〜1764年)に木曽三川の改修工事を負わされた
宝暦治水工事は特に厳しいもので、薩摩藩の財政を破綻させた上
数多くの犠牲者を出した悲惨な結末であった。しかも、犠牲者と言うのは
工事上の事故というものよりも、幕府の重圧に対する抗議の割腹自殺ばかりで
江戸幕府が外様大名への抑圧を如何に厳しく行っていたかが垣間見える。


両家の友好関係は江戸時代後期になると益々強まる。
薩摩藩8代藩主・島津重豪(しげひで、島津家25代当主)は3女の篤姫を
徳川御三卿のひとつである一橋治済(はるなり)の息子・豊千代に嫁がせた。
ところがこの豊千代が長じて将軍継嗣に就けられ、何と11代将軍・家斉になる。
最初から将軍正室として嫁いだ訳ではなく、嫁いだ相手の徳川縁者が
将軍になってしまったという“棚ボタ”的な結果ではあるが
(当初から将軍就任が決まっていたならば、この婚儀は在り得なかった)
前代未聞の「外様大名出自の御台所」になった事で、図らずも重豪は
将軍の姑という地位を手に入れたのである。これを好機と捉えた彼は
徳川将軍家と急速に接近、薩摩藩への優遇政策を幕府に根付かせようとする。
これは一応の成功を見たようで、幕閣から島津家は一目置かれるようになり
重豪は「高輪下馬将軍」と呼ばれるほど当時の政界に影響力を持った。
彼は将軍家との縁戚外交に相当な旨みを見い出したらしく
上に記した宝暦治水事件の痛手からまだ立ち直っていない藩政を差し置いてでも
積極的外交を展開。重豪の跡を継いで藩主の座にあった嫡男・斉宣(なりのぶ)
これを嫌って反動的に独自の政策路線を展開しようとするが、
篤姫を通じた将軍家との仲を重視する重豪はそれを許さず、排除するほど。
跡継ぎの息子より、娘婿との関係を最優先としたのである。


重豪の薫陶を受けて育った曾孫の斉彬(なりあきら)
島津家と徳川将軍家との関係に活路を見い出した人物。開明的名君として
有名な斉彬は、西欧文明を積極的に活用し殖産興業を果たしたが
幕末、開国に揺れる幕府に対しても同様の政策を推奨するべく
養女の篤姫(大河ドラマになったのはこっちの篤姫ね)を13代将軍・家定に
嫁がせた。こちらは「最初から将軍正室として嫁いだ」訳だが、これは
重豪の先例があったからこそ成し得た婚儀である。ちなみに、3代・家光以降の
徳川将軍(又はその継嗣に定まっていた者)に外様大名から嫁いだのは
これが唯一の例である。それほどまでに、島津家は徳川家との
“特別な関係”に固執していた事になろう。この時代の幕政は
開国問題のみならず、将軍後嗣問題などにも揺れており
斉彬は娘を嫁がせてそれらに介入しようとしていた。つまり
島津家は外様大名ながら幕政に参与する機会を狙っていた事になり
少なくとも「幕府を倒す」などという事は毛頭考えていなかった訳だ。


斉彬は志半ばに急逝し、代わって薩摩藩政を指揮したのは彼の弟・久光である。
久光は藩主の座を継承した訳ではなく(藩主になったのは久光の子・茂久(もちひさ)
“国父”の立場で政策を打ち出していたが、彼の実績で最も有名なのが
幕府の「文久の改革」であろう。大老・井伊直弼が桜田門外の変で暗殺され
権威を失墜させた幕府を立て直すため、薩摩藩の武力と朝廷の権威を使い
幕政改革を推し進めたのである。その詳しい内容は省くとして、
久光もまた「幕府を立て直す改革」をリードした訳であり
この時点では「幕府を倒す」事など意図していなかったのである。


結局、島津家(薩摩藩)が倒幕に傾いたのは
文久の改革が失敗に終わり、さらに長州征伐にも実効力が無く、
いよいよ幕府政権に回復の見込みが無い、と見切りをつけてからの事で
それは現実に大政奉還が図られるわずか1〜2年前と計算できる。
久光をはじめとする有力大名4候が徳川将軍家を補佐して政治を進める
“諸侯会議”が計画されていたものの、何とか従来の徳川将軍家専制体制を
維持したい徳川慶喜がそれを潰してしまった事が契機となったようだ。
つまりそれまでは、薩摩は倒幕ではなく
幕府を温存し、そこに参加する路線を狙っていた訳だ。
(重豪の縁戚外交はその布石、斉彬も同じ方向性だった)
薩摩が250年間、倒幕を企み続けたなんて事は有り得ないのである。



付け加えると、これも巷説?と疑われる話であるものの
明治維新直後、久光は西郷隆盛に
「して、余はいつ将軍になれるのだ?」と訊いた…という話がある。
つまり久光は、徳川幕府に見切りをつけて打倒したのは
それに代わって自身が新しい幕府を成立させる腹積もりであった訳だ。
“島津幕府”については様々な史書で憶測されており
久光の真意は当たらずとも遠からず、そうした所にあったのではなかろうか?
しかし維新を成し遂げた西郷らの思惑は
武家政権の古い秩序を廃し、西洋に倣った新たな近代国家を作る事にあり
久光(島津家当主ら)は全くその意義を理解せぬまま
部下の倒幕運動を容認していた事になる。
だとすれば島津氏の「徳川幕府を倒す」行動は、成り行きに流された
随分と的外れなもの(単に家臣に担がれただけ)でしかなく
「徳川憎し」などという考えとは全く違うものだった筈だ。

幕末の毛利家当主・毛利敬親(たかちか)もまた
同じく自らの意思としては倒幕を進める立場になかったようだ。
何せ「そうせい候」として有名な敬親である。
幕末、暗殺や外圧の脅威に晒された時代なので
自分の主張は表に出さず、家臣の進言に「そうせい」と従うだけなのは
処世術としては最も簡単確実なものだったのは致し方ない。
特に長州藩内は藩論が二転三転、
過激分子が多かった(それが倒幕の原動力にもなった訳だが)ので
「余は倒幕など考えておらぬ」などとは口が裂けても言えなかっただろう。
もちろん、逆に言えば「倒幕せよ」と考えていたとして
そのように名言していない事にもなろうが、これまた明治維新後の話で
封建体制を消滅させるべく、家臣である桂小五郎が廃藩置県を執り行う際
敬親は「これで余とそちは主従でなくなるのか」
涙ながらに悲嘆したという話が残っている。
信頼する家臣であった小五郎との縁が切れる事を悲しんだと言う
“美談”的に語られている逸話であるが、実際それってどうなの?
「家臣であった筈のお前が、殿様である俺をクビにするのか!」と
自らの立場が消える事を嘆いたと考えるのが自然なのではなかろうか?
※だいたい、桂は下級武士なんだからそう何度も何度も
  藩主と直接遣り取りする機会があった訳でもない筈だしw

そうせい、そうせいと家臣の言う事を鵜呑みにしていたばかりに
処世術だった筈が自分の首を絞める事になった状態を皮肉って
「主従でなくなるのか」という恨み言を最後に述べた…のであれば
やはり進んで倒幕する(幕藩体制を壊す)気などなかったと考えられよう。

薩摩も長州も、倒幕を先導したのはいずれも下級武士ばかり。
関ヶ原敗戦以来、生活に窮した面々がとうとう不満に耐えかねて
革命運動を起こしたという事はあるだろうが、
全藩を挙げて、特に藩主自らが率先して倒幕を指導したなんて事は
無かったはずである!


※革命運動?
明治維新は近代国家への転換点、従来の封建制を打破する
革命運動として捉えられる事が一般的である。
西洋諸国でも、16世紀〜18世紀にかけてこうした
“王政打破”“自由獲得”の為の国家変動が起きており
それらはいずれも革命活動として定義されている事から
明治維新は、西洋よりやや遅く到来した「日本の革命」と認知される。
しかし政治学上での革命とは、政権支配者を被支配者が打倒する事を指す。
この点、明治維新は幕府という「上級武士」を地方藩士の「下級武士」が
打倒した事実がある為(奇兵隊のような例外を除き、農民や商人らが武力闘争に参加していない)
結果的には「武士が武士を倒す」だけの争いという事になってしまう。
よって(「武士」とはつまり「軍人」であるから)明治維新は革命ではなく
クーデターの一類型と考える向きもある事を補記しておく。





そもそも、明治維新の原動力になったのは薩長「だけ」ではない。
「薩長土肥」と呼ばれるように、土佐藩が薩長の仲介をし
佐賀(肥前)の人材らも多く参加している。無論、それに外れる藩からも
数多の志士が活動していた訳だし、そう考えれば
「関ヶ原西軍が」明治維新を起こしたとは言い切れなくなる。


土佐藩主は山内(やまうち)家、関ヶ原では東軍の家だ。
しかし薩長同様、土佐藩の倒幕志士も下級武士が主体で
彼らの先祖は土佐土着の武士団、つまり山内家入封前からいた
長宗我部(ちょうそかべ)家の家臣末裔であり
それは即ち西軍の生き残り組と考えられよう。
土佐志士の代名詞・坂本龍馬などはまさしくそうした家系だ。
ところが土佐の下級武士は「東軍の殿様」が入封した事によって虐げられ
「土佐藩の身分統制」に不満を募らせていた事が、結果として
討幕運動へと転化していった訳である。よって、西軍残党だからと言って
直接的に「徳川将軍家打倒」という事を250年間考えていた訳ではない。
そもそも、土佐藩を支配していた(前)藩主・山内容堂(ようどう)
結局のところ、最後の最後まで徳川家擁護の立場を崩していない。
東軍参加の恩賞として徳川家から土佐24万石を与えられた恩義は
250年経ても山内家を動かすことなく、倒幕派への鞍替えを許さなかった。
大政奉還を建白したのは山内家だと言われるが、これも
“倒幕派の機先を制する為”政権返上という裏ワザを持ち出した訳であり
徳川家を倒す為の方策ではない。その後の小御所会議においても
何が何でも徳川家は潰せとする薩長勢力に対し、容堂は反対の意を述べている。
土佐藩兵は戊辰戦争において薩長軍と共に進撃したが、
藩主の意向は蚊帳の外、でこうした事態になった訳だ。
土佐藩は一枚岩ではなく、そして倒幕を支持した面々も
別段「徳川家への恨み」で動いた訳でもなく、複雑怪奇な様相を呈していた。


※山内容堂
容堂は隠居してからの号、本名は豊信(とよしげ)。
倒幕派が活発に動いた土佐藩にあって、上記の通り一貫して
佐幕派にあった山内家当主である。とは言え、彼もまた毛利敬親よろしく
本意を外に漏らす事がなく、倒幕派を泳がせた為に土佐勤皇志士らは
「大殿は我々の行動を容認してくれている」と大いなる誤解をしていたようだ。
幕末の政局は二転三転、京都で勤皇派が主導権を握っていた頃、容堂は
これに同調するそぶり(利用しようとした?)で土佐勤王党の
武市半平太(たけちはんぺいた)らを自由に活動させ、転じて幕府方が
勢力を奪還したとなるや、素早く弾圧に動き武市らは処刑されてしまう。
自称「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」、大酒呑みの殿様は幕末の四賢候と
数えられるがその実、都合の良い時に都合の良い風向きを読むだけの人物で
彼の本質を見抜けなかった武市もまた、その程度の才しかなかった訳である。
その容堂もまた、家臣(や脱藩者!)に流されて倒幕を止められず
土佐藩は新政府に食い込む事となるのだから、皮肉な話としか言いようがない。


佐賀藩に至っては、別段討幕運動に熱心だった訳でもない。
先進的な才能を有した人材が豊富だった事から、薩長らに求められ
明治新政府成立に参画した藩である。つまり、関ヶ原の恨みなどは
全くない訳だ。結局のところ、明治維新を牽引したのは確かに
関ヶ原西軍の末裔を「含む」地域ではあったが
関ヶ原西軍で「あるが故」にそうした訳ではないのである。
歴史を面白おかしく創作するのは
歴史への冒涜に他ならないと思うのだが、
賢明なる諸兄らは如何お考えであろうか?




焔 硝 蔵 へ 戻 る


城 絵 図 へ 戻 る