★★★相州乱波の勝手放談 ★★★
#13 「城」と「城跡」の違いを論ずる必要はあるのか?
 




お城初心者(あるいは単に観光客で城には興味ない人)のネット書き込みを見ると
「姫路城に行ってきました。とても大きくて高かったです」
「金沢に行きましたが、どこにお城があるのかわかりませんでした」
「江戸城って、今は無いんですね」
「仙台城は城跡だけでした」
「大阪城から通天閣は見えるんですか?」と言った文章をよく見かける。

これってつまり「城」という単語を「天守閣」として認知している感覚ですな。
「姫路城『の天守閣』はとても大きくて高かったです」
「金沢に行きましたが、どこにお城『の天守閣』があるのかわかりませんでした」
「江戸城『の天守閣』って、今は無いんですね」
「仙台城は『天守閣がなくて』城跡だけでした」
「大阪城『の天守閣』から通天閣は見えるんですか?」という意味だろう。

こういう文面を見る度、お城マニアは「城は天守だけじゃない!」と怒る事が多々。
確かに、城とは防御施設として築かれた「敷地そのもの」を指す訳で
天守は単にその中の一建築物に過ぎないものである。だから堀や石垣があれば
そこは立派に城なのであり、天守(のみならず他の建物)があろうとなかろうと
城の存在が否定されるべきものではない、と言うわけだ。


※天守(天守閣)
その城で最も高く大きな櫓を一般的に天守と言うが、
櫓と天守の明確な技術的区別はないので、要するに天守と称せば天守、
そう呼ばなければ天守ではないという事になる。ただし、4重以上の高さを
有した櫓は、ほぼ間違いなく(他に同等の櫓がない前提条件で)天守とされた。
城の最も城らしいシンボリックな建物であるが故、現代では
「城」=「天守」と解釈されるのも致し方ないが、本来の意味で言えば
櫓・塀・門や御殿などと同様に城郭を構成する“一建造物”でしかない。
なお「天守閣」という言葉は明治以降に合成された造語で
学術用語としては「天守(天主)」とするのが正当。



一方で、お城初心者の書き込みで時折こういうのも見かける。
「城と城跡って、どう違うんですか?」
天守閣があると城で、無いと城跡?
石垣があると城で、無いと城跡??
地図に示されていると城で、無いと城跡???
初心者の方は、こういう線引きが分からない…とお嘆きになられるようである (^ ^;

ぶっちゃけ、これって実は相当な難問で
何を以って城と為し、何を以って城跡とするかは明快に答えられない。
個人的感覚で申し上げれば、現役で使用されているものが「城」で
既に城として機能していない場所が「城跡」と考えるべきかと思う。
つまり城主(若しくはそれに代わる守備兵)が居て、侵入者を阻み
或いは統治の拠点として領国を統べる機能を有している場所が城という事になる。
が、明治の廃藩置県・廃城令公布以来そうした用途で使われている場所は
拙者の知る限り、今となっては皇居となった江戸城以外存在しない。
(守衛がいて出入を阻む場所としては…仙台刑務所になっている若林城もかw)
まぁ、皇居とてもはや城郭としての設備を期待されている訳ではないのだから
要するに、今現在の日本にあるのは全部「城跡」と解釈すべきで
姫路城が世界遺産であろうと、熊本城が本丸御殿を復元しようと、
全て「城跡」でしかないワケだ(ちょっと暴論気味?)


※廃藩置県・廃城令
1871年(明治4年)、江戸時代の“幕藩体制”を消滅させ
明治新政府が中央集権体制を確立する為に発したのが廃藩置県。
藩を廃し、政府が任命した長(県令)によって統治する県が設置された…というのは
義務教育でも習っている筈なので、皆様ご存知ですよね?(知らないとは言わせないw)
これに伴って1873年(明治6年)に発布された太政官達(法令)が所謂“廃城令”、
正式には「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」という命令。
江戸時代までの“権力基盤”であった全国各地の城郭(や陣屋)を国が所管した上、
その大半を廃止処分として破却・資産売却するものであり、これによって
ほぼ全ての城が廃城とされてしまった。ごく僅かに残された城も
軍用地や皇室離宮、あるいは公園などに転化されており
これら明治政府の方策によって、城は本来の機能を失う事になったのである。



ところがこれまた、熱い熱い城マニア達に言わせると
「城は城だ!城跡なんて言うな!!」
「跡地扱いにして別の建物を建てるのがおかしいんだ!」
「城の敷地は全て史跡として保全しろ!!!」などなど。
う〜ん、まだお城に詳しくない初心者さんの意見に
そこまで過激に反応する方が異常だと思うんだが…。

個人的にこういう方たちを「城郭原理主義者」と呼んでいるのですが(苦笑)
さらに行き過ぎた原理主義の方は、城跡の保護はむやみやたらに叫ぶ反面
復元や公園化するとなると「遺構破壊だ」と大反対の声を上げられる。
そもそも(最上段のくだりでわざと書いたのですが)「天守閣」と言っただけで
「『天守閣』は明治以降の造語だ!天守閣なんて言うな!天守と呼べ!!」



オイラも城をかじってる人間なんで、云わんとする意思は酌むけど
どーにもこういう原理主義の意見って
単に独善的で自己満足にしか思えない…。



某SNSの城関係コミュニティで、以前あった書き込みですが
「城を見に行くなら、城を勉強してからじゃないとダメだ」と言った要旨の
トピックが立ったところ…さすがにそれは周りから猛反対を食らい撃沈
そりゃそうだよ、観光客やお城の初心者が、やれ枡形がどうだの
横矢掛かりがどうだの、櫓の構造がどうだの言われても、わからないどころか
そんな難しい話をされるのなら城なんか行かない!って
嫌われるのがオチに決まってるわな。そのトピを立てたヤツにしたって
最初は必ず初心者だったんだから、そういう論をぶち上げること自体
ちょっと詳しくなったから天狗になって偉ぶっているっていうだけでしょ?
本当に城を見るのなら、まず楽しんで興味を抱く気持ちになる事が最優先。
レベルアップして詳しくなったとしても、他の人を城へ誘う時は
そういう“環境”を作り上げるのが先達としての責務でしょーが…。


※枡形(ますがた)
城郭の敷地(曲輪)への出入口は、防備上当然の事として門で閉ざされるが
建築物としての城門だけでなく、それを配置する敷地構造にも工夫が凝らされる。
このような城門構造にはいくつかの分類があるが、その中でもかなり高度な
守りを固める構造として用いられたのが桝形である。
出入口を前後2つの門で固め、その間を小さな閉鎖空間とし
この中に攻め込んできた敵兵を閉じ込め、殲滅するもの。
こうした閉鎖空間は四方形を成す為、桝形と呼ばれた。


※横矢掛かり
城へ攻め込もうとする敵兵に対して、正面からだけでなく
側面からも射撃を加え、十字砲火で敵勢力を殺ぐ方法。
あるいはその為の構造。
城郭の外周部は往々にして屏風状に折れ曲がり
侵入路を屈曲させるようになっているが、これが
敵に対する側面攻撃の陣地となり“横矢を掛ける”事になっている。




また別の書き込みでは、荒れに荒れていた城跡の土塁が
国の史跡として綺麗に再整備された事に関して
「良くなった」というどころか「前のままで良かった」などと発言。
正直、この意見も「城マニアのワガママ」だと断じたい。
曰く、「荒れ城としての風情がなくなった」との事でしたが
荒れ城を荒れ城のまま放置しておくのが良いのか?と反論したいものだ。
そもそも史跡としての価値、文化財に指定される意義というのは
“過去の偉業を現代に残し、未来に伝えていく”事にあるのだから
風化したまま放置しておけなんていうのは、全く保全にも何にもならないし
そんな荒れた史跡では、城マニア以外の
一般の方(特に地権者や周辺住民の方)からは
「こんな状態のまま置いておけと言われても、
 意味が無いし活用できない無駄な土地だ」と嫌われるのが
当然の成り行きだ。荒れ城の風化した痕跡を見つけ出すのが
城マニアならではの醍醐味ではあるが、だからと言って
史跡整備を「するな」なんていうのは、歴史を愛する者ならば
趣旨に反する暴論だし、況してやそれを城に興味の無い人にまで強要し
「この城跡はこのまま荒れた状況を楽しめ」なんて言うのでは反感を買い、
むしろ「こんな城跡、潰してしまえ!」と反対されるだろう。そんな事になり
肝心の城跡の上にマンションでも建てられた日にゃ、大いに本末転倒だ。



そうは言っても、史跡保全のあり方が難しいのは現実問題としてある。
例えば近年、栃木県宇都宮市に宇都宮城の土塁と櫓が復元された。
ところがこの復元工事、防災公園として活用する目的で予算が付いた為、
土塁はそう見える見せ掛けのもので、中はコンクリートの地下倉庫になっている
“コンクリ塁”なのである。しかも、長く連なる塁の中央部分には
その倉庫に荷物を搬入したり、災害時の避難経路とする為の大きなハッチが
口を開いている。これでは正直、城跡としての復元とは言えない。また、
櫓へ登る為の通路も“バリアフリー対応”の為にスロープやエレベータが。
これを見た城マニア達は「こんなの城じゃない」と嘆く事しきり… (- -;
復元された宇都宮城
復元された宇都宮城

できるだけ目立たないように撮った
写真なのですが、土塁のドテッ腹に
ゲートが開いてるの見えますか?
(写真をクリックすると拡大画像が出ます)
確かにこれじゃ城跡の風情はないし、
逆に防災施設と言われても、
何だかわからん…。
しかし、しかしだ。この不景気の世の中にあって城址を一から復元するなら
単なる復元では予算が付かないのは当然であろう。況や宇都宮城は
太平洋戦争後までその土塁や濠が残っていたにも拘らず、
県庁所在地として市街地の拡充・土地の有効活用といった必要性や
衛生上の問題(当時、濠の水に害虫が湧いたそうだ)で城を潰したのである。
50年前に市民から忌避されて潰した城を、わざわざ復元するのだから
単に“景観再現”とか“史跡整備”というだけでは承認される筈もなかろう。
防災拠点として活用する為というならば、市民に納得される理由にもなるし
“役立たずの城跡”であったものが“役立つ城跡”として再生するならば
こんなに素晴らしい話はないはずである。バリアフリー対応にするのも、
21世紀の現代では当たり前のこと。スロープやエレベータを外せなんてのは
「障害者は城へ来るな!」と言ってるようなもので、むしろそっちの方が
良識を疑う大問題である。原理主義の独善では、今に日本中の城が
(保全されるどころか)尽く目の仇にされ、消されかねない事に気付くべきだ。



※他の名目での城郭整備(復元)例
岡山県高梁市にある備中松山城天守、貴重な現存12天守の1つであるが
あまりに高い山の上にあるが故、明治維新以後“残された”というよりも
“解体するのが面倒なので放置された”状態のまま残存していた。
昭和に入り、ようやく文化財としての価値を城郭古建築に見い出す時代となるも
既に戦時体制、大陸との戦いに日本は突入しており
山上の寂れた荒れ城の保全に予算など付く筈もなく、貴重な天守は
柱が折れ、壁は朽ち果てて大穴が開き、いつ崩壊してもおかしくない状態であった。
これを憂いた地元有志は一計を案じて国に訴える。戦時体制なればこそ
「高い山の上にある天守を、非常時に備える監視哨として使う」と申請したのだ。
何とこれが認可され、貴重な文化財である天守は保全工事が行われたのだった。
人が見向きもしない「城の跡地」でしかない場所を守るには、昔も今も
それなりの知恵と工夫が必要であるという逸話である。
昭和修復前の備中松山城天守


昭和修復前の備中松山城天守

柱は朽ちて落下し、壁は完全に抜け落ち
建物の向こう側に広がる空が透けて見える。
石垣の手前や奥も倒木や雑草の藪だらけで
明治維新以来約70年間放置された古建築の惨状。
(写真をクリックすると拡大画像が出ます)
これでもなお「文化財としては」修復の予算が認められず
不測の事態に備える「警備小屋」として
ようやく修理されたのだから、その苦労が偲ばれる。



冒頭の話に戻るが、「天守のない城は城じゃない」というのは
一般の人の感覚ならば、当然なのであろう。また、「天守閣」という言葉も
これまた一般的に使われるものであり、日本語として市民権を得ている単語だ。
無論、専門家同士での話で天守閣などという“俗語”を使うのは憚られようが
「イロハの『イ』」さえ知らない初心者がそう言ったとて、何の問題があろうか?
原理主義者の感覚は、こうした“一般観念(つまり「常識」ですな)”から
どんどん乖離していく一方でしかないように思える。彼らは自分らの意見を
押し通すばかりで、常識からは逸脱しているのだ。そんな原理主義者とて、
生まれた時からそうであった筈は無い。
誰しも最初は一般人、初心者だったのだから
今一度、初心に帰るべきである!



普通に使われる「天守閣」という単語に、そんな目くじらを立てるなよ?
天守がなくても城なんだと、「怒る」のではなく「諭せば」良いはずだろ?
史跡整備に意見があるなら、それをもっと世の中に認めてもらえよ?
たとえ防災倉庫であっても、再建して頂けた事を謙虚に感謝しろよ?


自分達だけが分かれば(楽しめれば)良い、自分達の言う事だけが正しい、
世の中の連中は自分達の目線に合わせろ、なんて言うのは
極めて傲慢で不遜で
     自己中心的思想の極致
だぜ?
自分が一つ上のランクにいるという自負があるのならば
もっと寛容に一般常識を受け容れ、初心者への手ほどきを怠らず、
広く世の中に城の事を知ってもらう努力をすべきではないのだろうか…。



「城」と「城跡」の違い、マニアの間では喧々諤々に議論する事になるだろうが
上に記した拙者の論(現役の「城」は既にない)ならば
今現在、全ての「城」は即ち「城跡」だという事になり、無駄な議論の余地はない。
初心者の方にも「小難しい事は考えずに、気楽に城を楽しめば良い」と
簡単な説明で事は足りる。愛好家同士で色々と研究するなら、
それはそれで良いとして、一般に対してまで専門的見地を強制するのは
必要ない事だし、むしろ了見を狭めるだけだと思うのだが、如何であろうか?




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