★★★相州乱波の勝手放談 ★★★
#11 真田父子、一番偉いのは「お兄ちゃん」だ!
 




真田信之 (C)KOEI さなだいずみのかみのぶゆき
 真田伊豆守信之。偉大すぎる智謀の父や、“日本一の兵”と讃えられる弟に隠れ
一族の中で目立たぬ存在になってしまっている日陰の将だが、幕藩体制成立期
堅忍自重に徹して真田の家名を守りきった賢君。当時としては驚異的な93歳まで
永らえた長命さは、激変の世に真田を敵視する者へ睨みを利かせ続けた。


唐突だが、拙者は関ヶ原合戦に関して東軍派である。
が、東軍贔屓でも真田家が凄い事は認めている。
そして東軍贔屓を差し引いても、真田一門で最も優れた人物は
表裏比興(ひょうりひこう)の昌幸でもなく、
日本一の兵(ひのもといちのつわもの)の信繁(幸村)でもなく、
信之(信幸)公である筈だと声を大にして言いたい!
 ―――お?いつもとチョット違うぞ今回の出だしは(笑)



近世真田一族と言えば、信州の名門・海野(うんの)家の流れを汲み
戦国時代には、周辺豪族から所領を追い出される不運に見舞われながらも
武田信玄の懐に入り込む事で勢力回復の大逆転を果たした名将
幸隆(ゆきたか)を家祖としている。信玄は信濃攻略に
幸隆の知略を活用した訳だが、逆に幸隆も武田家の強大な軍事力を
手玉に取った訳で、お互いの思惑が一致したという以上に
幸隆と言う人が恐ろしいほど“頭の切れる”名将だった事は衆目一致する処だ。

幸隆の跡を継いだ長男・信綱と、2男・昌輝は共に長篠合戦で惜しくも戦死した。
若くして戦死した事で、史家の評価は分かれてしまい
猪突猛進して没した猪武者(←頭が足りない、という低い評価)と
《某歴史SLGだと、真田一族の中で信綱・昌輝兄弟だけ政治・智謀の才が低い》
早死しなければ、他の一族衆同様に賢将だった筈だ―――と2分される。
歴史に「もし」は禁句だし、いくら想像したとて史実は変わらぬ訳だが
個人的には(徳川信者にも関わらずw)後者だったに違いない、と思う。
あの幸隆の薫陶を受け、真田家の衰亡から復活を見ていた兄弟ならば
身の処し方、生き延びる術は叩き込まれていたに違いない。
幸隆隠居後、信綱は信濃先方衆の筆頭に数えられているし、昌輝も
信玄から「兵部(昌輝の事)は我が両眼なり」と評された程なのだから。

#その2人が戦死した事で、昌幸に活躍の場が回ってくるのは何とも皮肉な話なのだが…。

兄2人が亡くなった事で真田家を継ぐ事になった幸隆の3男・昌幸。
言わずもがな“表裏比興”という名文句で語られる謀将である。
表と裏を使い分け、時に卑怯と恨まれながらもそれを意に介せず
ただひたすら「真田家を生き残らせる」事に徹した鉄の男は
“徳川家康の天敵”として恐れられる軍事的才幹と
“豊臣秀吉を唸らせる”ような政治的器量と
“父祖の地を守りきる”ための交渉能力を身に付けた天才だ。
関ヶ原合戦時、またもや徳川を敵に回しながらそれを翻弄し
敗北した西軍の中にありながら、戦略的慧眼を持った人物であろう。

その昌幸の意思を継ぎ、関ヶ原そして大坂の陣で大活躍するのが
彼の2男・信繁。徳川に徹底抗戦を貫き、家康をあわやという所まで追い詰め
その働きぶりが“日本一の兵”と讃えられるのは、もはや歴史マニアでなくとも
常識になった感がある(のはオイラだけ?w)。幸村こと信繁の奮戦は
今更ここで語るまでも無いが、十勇士を従えて作戦を打ち立てる姿が
小説や講談で格好の題材になるのも、頷ける話である。


しかし、だ!


真田一族の話題になると、語られるのは大概ここまでなのだが
忘れられている重要人物がもう1人居る。昌幸の長男にして信繁の兄である
真田信之公だ。信之は家康の養女を嫁にし、真田・徳川和議の実現者として
その身を捧げ、関ヶ原合戦時に於いても、父や弟と袂を分かち
あくまでも家康に臣従する道を選んだ。真田一族が東西両軍に別れたのは
どちらが勝っても、真田家の血脈は残るという計算があったと言われるが
信之は家康の家臣という立場にあるのだから、昌幸が豊臣に従ったのと同じく
当然の成り行きであり、これが故に真田家は譜代格を江戸幕藩体制下で
有している(すっかり完全な外様だと勘違いされているようだけど…)。

信之は関ヶ原戦後、自身の戦功と引き換えに父や弟の赦免を願った。
また、罪一等を減じられ配流となった彼らへ密かに生活支援を行い
父祖への孝を果たしている。しかしその一方、公的には
旧名「信幸(幸の字は父・昌幸の幸を受け継いだもの)」を「信之」に変え
“徳川に敵対した者は切り捨てる”体裁を整えている。また、度重なる
幕府からの手伝普請に積極的に応じ、真田家の絶対的忠誠を示した。
特に昌幸から手痛い敗戦を舐めさせられ、真田家への怨嗟を募らせた
2代将軍・徳川秀忠はどうにかして真田家の取り潰しを画策したようだが
信之は徹底して幕府への従順さを貫き、それを回避している。
真田家は父祖以来の地・上田(長野県上田市)から引き離され
(温厚な信之だが、さすがに↑この仕打ちには激怒したらしい)
藩財政を逼迫させる程の献身を要求されたが、信之はその屈辱に耐えた。
江戸城外堀部、現在もJR中央線沿いに残された長大な堀跡は
真田家がこうした状況下で完成させたもので、今でも“真田堀”の名で
東京都心に存在感を示しているのである。
信之は忠孝を両立させた賢人であり、
“表裏比興”の父とは異なる形で名将になったと言えよう。

参考:真田堀の位置



過去の史観を紐解けば、関ヶ原で西軍に属した武将は大半が
「天下人・徳川家康へ弓引いた賊将」という評価がされてきた。
石田三成然り、宇喜多秀家然り、小西行長然り、だ。
西軍諸将の評価が激変して“忠義の将”とされたのは、ようやく
太平洋戦争後になってからの事。西軍の中で賞賛されていたのは
“敵中突破”で本領安堵を受けた島津と、真田くらいのものであった。

では何故、真田が江戸時代を通じて高い評価を受けていたのかと言えば
やはり信之(とその後継)が家を守り通してきたからなのではなかろうか?
仮に真田家が断絶していたならば、滅びた家を擁護する者など居なくなり
真田もまた「徳川へ弓引いた賊将」の扱いを受けていた筈だ。
しかし信之が存命し、真田家を徹底した“親徳川”の家として再編した事で
そうした侮蔑を受ける事なく、真田家の名誉が守られた訳である。
そして真田の家が残されたからこそ、昌幸や幸村(ここでは敢えてそう呼ぼう)ら
「まさに徳川へ弓引いた敵将」までもが“日本一の兵”という驚愕の尊称で
語り継がれる事になったのだろう。

幸運にも信之は93歳という驚異的な長命で生き続けた。
人の寿命は天命であるから、摂生や療養で多少の前後はあろうが
延ばす事は出来ないものである。されど、信之がこんなに長く生きた事で
真田を憎み続けた徳川秀忠は先に没し、3代将軍・家光の時代を越え
4代将軍・家綱の治世にまでなっていた。これだけ後世になると
“徳川に仇した家の者”というよりも“数少ない実戦経験者の生き残り”として
信之は畏敬の対象になっていた。であるからこそ、真田家は
昌幸・幸村の戦いぶりを含めた上で「名誉回復」を為し得たのだろう。



仮に、仮にだ。大坂の陣で信之が大坂方につき、
逆に信繁が幕府に従ったとしたらどうであっただろう?
父の戦略を知る信之もまた、戦力としては十分な活躍を見せた事は想像に難くない。
それどころか大局を見極め、一喜一憂する淀殿の感情で右往左往した作戦を正し
開戦(いや、それ以前)から終戦までを統率し得る天才として名を馳せただろう。
史実では弟が乾坤一擲の特攻で“日本一の兵”として華々しく散ったが
兄が取仕切った大坂方は家康をして
「さてもさても、伊豆は剛毅なり」と言わしめたかもしれない。
一方、徳川幕藩体制の中に組み込まれた信繁が真田の家を継いだとして
兄のような見事な処世術を見せられるであろうか?
無論、信繁が愚鈍などと言うつもりはない(“愚直”ではあっただろうがw)。
彼なりの方法で真田家を残す努力はしたであろう。だが、父兄が徳川将軍家へ
仇為したという“汚名”を“英雄譚”にまで転化させられるとは思えない。
信繁にそこまでの政治的センスがあるならば、史実で
もっと上手い立ち振る舞いをしただろうから。
(徳川には敵対一辺倒、せっかく入った大坂城内でも外様扱い)
そして、そのような汚辱の中で耐えるを潔しとせず、
数年の後に自害でもしてしまうのではないだろうか…?
もしそうなったならば、家中不行状の名目で
幕府から真田家取潰の口実を与える事になったであろう。
真田の家に「戦いを自在に操る」猛将が数多く居たのは事実だが
「家を存続させ、名誉を守る」事を可能とするには、
信之以上の逸材が居なかったと思われる。

※「さてもさても…剛毅なり」
“城攻めの天才”と評される豊臣秀吉に対し、“野戦のチャンピオン”とされる徳川家康。
その家康が生涯の大敗を喫したのが、武田信玄を相手にした三方ヶ原の戦いであった。
散々に打ち負かされ、浜松城に逃げ込んだ徳川軍であったが
その夜、負けたままでは終われないと決死の逆襲を敢行した部隊が
戦いを終えてひと段落し夜営する信玄の陣に鉄砲を撃ち込んだ。
この襲撃で武田軍に大きな被害は出なかったものの、信玄に
「さてもさても、浜松は剛毅なり」と言わしめ、
徳川勢の不撓不屈ぶりを思い知らせたのである。





昌幸は信念で徳川との対決を選び、
幸村は兎に角「天下人(家康)と決戦したい」という一心で
関ヶ原・大坂の陣を戦い抜いたと言われる。彼らの本心が
どうであったのか、今となっては知る由も無いが
当たらずとも遠からず、といった所だろうし
そうした“純粋な武人”の生き方が、現代人にも共感を呼んでいる。
それはそれで良いと思うし、個人的にも納得できる。
だがしかし、彼らは敗者となり歴史の表舞台からは姿を消した。
しかも「負けるのを判っていながら戦った」節さえ見受けられる。
もしそうだとしたら、真田家は滅亡した上に
“無謀な戦を引き起こした愚者”とさえ呼ばれる可能性があった。
彼らの戦いは、キツい言い方をすれば“自己満足”“我侭”なものだ。
曲がりなりにも戦国武将が家を潰して滅びるなど
有ってはならない事である。家祖・幸隆はあらゆる手を尽くして
真田家の隆盛を成し遂げたのだし、それがあったから
真田一族は“家の発展”を第一として戦った筈なのだから。

信之が恥辱に耐えながらも家を残したからこそ、
彼らの“我侭”は“純粋な武人”に昇華できたのである。
信之が家を守り継ぐという打算があったからこそ
心置きなく昌幸・幸村は徳川と対決する事ができたのかもしれない。
だとすればいや、それ故に
真田家最高の殊勲者は信之公だと言いたい!
天下人を震え上がらせた武功と
天下に真田の名を遺しめた忍耐は、どちらが重要だったのだろうか?
真田一族が天下一の巧将と現代にまで讃えられ続けているのは
上田や大坂で目に見える戦果を挙げただけでは不十分で
目に見えない戦いを果てしなく勝ち続けた名君が居たからこそである。
隠れた名将に、最大限の敬意を表したい m(_ _)m




焔 硝 蔵 へ 戻 る


城 絵 図 へ 戻 る