★★★相州乱波の勝手放談 ★★★
#09 秀吉ってそんなに偉いか??
 




豊臣秀吉 (C)KOEI とよとみひでよし
豊臣秀吉。農民の出で関白にまで登り詰めた日本史上最高の出世者。
信長の草履取りから天下を手にするまで立身した姿に、憧れを抱く日本人は
数知れない。また、天下人となった証として彼は“黄金”を嗜好し、侘び寂びを
重んじる茶の湯の世界でさえ「金の茶室」「金の茶釜」で飾り立てた。
まさに稀有壮大、桁違いの人物であった。


世の中、戦国武将ブームである。


信長を題材にした書籍・TV番組・ソフトなどのコンテンツは空前の大賑わいだそうだ。
名古屋を筆頭に全国各地の城では“御当地武将隊”のようなものが組織され
一方で小説「のぼうの城」の題材になった成田長親(ながちか)ように、
人知れぬ将にも脚光が当てられ、大当たりしている。況や、歴女さんたちには
伊達政宗や真田幸村(信繁の事ねw)、石田三成なんかが持て囃されて大人気。
「大人気」というよりも少々「大人気ない」という感じに思えなくもないが…(苦笑)

独眼竜、精悍でアクティブなイメージが強い政宗は別格として
武将人気で取り沙汰される人物は、石田三成に大谷吉継、真田幸村それから島左近など
「関ヶ原西軍」の武将達がほとんど。最近じゃ長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)とか
“ホントにそれってカッコいいのか?”と思える人物さえ絶好調。東軍派のオイラとしては
「直江兼続って戦下手じゃね?」「実際の三成って、単なるカタブツだと思うけど?」と
色々とツッコんでみたくなるが、まぁ今回の論点はそこじゃなくて (^ ^;
西軍贔屓の人が口を揃えて言うのが「豊臣政権を守ろうとした義が素晴らしい」との事。

―――敢えて言わせて貰おう。豊臣政権、つまり
秀吉ってそんなに偉いか??

※成田長親
小説をお読みになった方は「のぼう様」でお分かりでしょう。
お読みでない方に簡単な説明を致しますと、豊臣秀吉が天下統一をかけ
小田原後北条氏を攻めた際、後北条方の支城・忍(おし)城の現地指揮官として
籠城戦を戦い抜いた人物。2万とも3万とも言われる豊臣軍に包囲されながら
手勢3000程度で城をまとめ上げ、遂に小田原城が開城した後まで忍城は落ちなかった。
と説明するとメチャクチャ名将?という事になるが、知名度は小説が出るまで
全っっったくと言って良いほどなかった、不遇の天才。

※長宗我部盛親
関ヶ原合戦前まで、土佐国(現在の高知県)を治めていた大名。
当初、東軍につくつもりだったと言われるが
なし崩し的に西軍につくハメになり、しかも戦場では全く参戦せず
挙句、徳川家康への釈明も不手際で御破算にしてしまい
土佐24万石の大封を総て没収され、牢人に身をやつした人物。
成田長親とは正反対、知名度はあるが愚将の極みという感じだが
その割りに、最近は人気が赤丸急上昇…何でやねん?

※直江兼続
上杉氏の宰相、大河ドラマでは「愛」の前盾の兜で有名になりました。
その兼続、関ヶ原合戦の折には西軍方として積極的に動き
東軍についた山形・最上(もがみ)氏の領地を侵犯します。
が、長谷堂(はせどう)城の攻略につまづいた所で閉塞。
この戦い、城を守りきった最上勢の活躍が殊更賞賛されますが
実は兼続が軍勢の展開に大きな失策を犯していた事も勝敗の遠因になっており
結果、上杉軍は最上領から追われる事になりました。



・草履取りから日本の覇者へ、立身出世の最高峰
・大坂城に伏見城、金に糸目をつけない派手な生き方
・機敏な才知、果断な決断力、全国を股にかけた行動力
秀吉を褒める台詞と言うと、誰しもこういう言葉が出てくるだろう。
天下を手にした出世ぶりを皆が憧れ、黄金を贅沢に使うゴージャスさを羨み、
溢れる才覚で日本を変えた漢、確かに“これぞ戦国武将!”という人物であり
それに比べると「家康は地味で面白くない陰険な狸親父」と酷評されてしまう。

いや、ちょっと待て。それって本当に素晴らしい事なのか? (ー゙ー;
古い考え方かもしれないが、日本人の美徳は、堅忍・篤実さではないのか?

西洋文明の精神論では、例えば自然とは大いなる脅威であり
風水害に打ち勝ち、少しでも収穫を上げるために大地と“戦う”ものである。
一方、日本古来の伝統習俗は自然と共存し、自然の恵みを等しく分け合い
収穫物とは即ち大地からの恵み(奪うもの・作るものではない)で、
八百万の神に感謝を捧げる生き方。平穏を何よりの幸福とし、
誰かを貶めるような事はせず、聖徳太子の時代から全体の調和を尊び、
その伝統は20世紀においても(少々の皮肉を込めながらも)
「一億総中流」なる言葉に脈々と受け継がれ
皆が皆、等しく平等に生き、互いを思いやる気質を育んでいたはずだ。
日々の暮らしをコツコツと。高望みはせず、勤勉で真面目な生き方が一番!
どーにもバブルの頃から金満生活に陥り、勝ち組だ負け組だ言うようになってから
世の中は不況にすさび、治安は極めて悪くなり、道徳観も地に墜ち、
日本の国はマイナス方向のデフレスパイラル…。

何だか話がドンドン分かりにくくなっているが(爆)

つまりだ、向上心は良いとしても“出世欲”とか支配者として“君臨する”とかって
アメリカンドリーム的な「一発当ててやるゼ!」という発想であって、
日本人の質素誠実な主義とは本質的に相容れないものなんじゃない?
黄金嗜好ってのも、これまたつまりは俗悪な成金趣味って事でしょ?
(だって茶の湯黄金とか、凄いけど常識で考えてだろ!)
才能があると言っても、天下を統一するには至ったけれど
その後、天下を治めるという点では全然役立ってない訳だし…。

挙句の果てには、千利休を切腹させちゃったりして
これって即ち「オレ様が何でも一番なんだから、茶坊主は引っ込んでろ!」って事だし
(いやまぁ、随分とザックリした説明だけどね、ザックリとw)
甥の秀次に後継の座を譲っておきながら、いまさら自分の子供が産まれたからって
「やっぱやーめた、お前クビ!」って手のひら返して殺しちゃってるし
(これもザックリとした説明だけどねwww)
何と言うか、あまり後先考えてないんじゃねーの秀吉さん??
結局、豊臣家は後継体制が維持できず追い落とされてる訳だしさぁ。
利休に調整役を任せて、秀次を秀頼の後見にして生かしておいたら、
家康に天下ひっくり返されて豊臣家が滅亡に追い込まれるような事は
無かった(つまり豊家滅亡はある意味自業自得)と思うぞ。

んでもって「日本はオレのものだから、次は朝鮮中国もオレのもの〜!」ってノリで
海外出兵なんかしちゃってさ、いやこれもザックリとした説明だけど
そんな感じの後先考えないバカっぷりのせいで、21世紀になった今でも朝鮮半島から
「日本は侵略国家だ」なんて
          言われ続けるハメになってるし (▼▼メ

過去の不幸な歴史ばかりいつまでもウダウダ言う輩も輩だけど
せめて秀吉があんな事しなければ、件の輩に非難される原因が1つ減ってた筈。
バカ猿め、日本国が未来永劫雪ぐ事の出来ない外交汚点を作ってくれやがって!
秀吉って「日本を統一した英雄」ではあるけれど
決して「日本を平穏にした名君」ではないんだわな。

っつーかさぁ、外征の歴史を言うんなら大陸側だって
新羅の入寇に刀伊の入寇、元寇×2回、応永の外寇ほか諸々あって
日本側が攻めたのよりよっぽどしつこいと思うんだよなぁ(ボソっ)


※新羅の入寇〜応永の外寇
要するに全部、大陸の軍勢が日本へ攻めて来た事件です(またもやザックリだw)
この手の侵略戦争、特に対馬・壱岐という「朝鮮半島との中継点」は
言語に絶する凄惨な蹂躙を受けております。21世紀の現在、アメリカの世界戦略で
過剰な負担を強いられている沖縄の現状が問題視されておりますが
近代になるまでは、日・朝・中の結節点であった対馬・壱岐こそ
数々の難題に直面していた…という事こそ、もっと教科書に書くべきじゃないのか?!



何はともあれ、家康の方が日本に相応しい為政者なんじゃねーの?
なんたって、世界史上でも稀な250年以上の安定政権を作り出した人物なんだから。

って言うと西軍派の人たちは「家康は政権の簒奪者だ!」って目くじら立てて怒り出す。
家康は秀吉が治めた天下を横取りした泥棒だ!!と仰いますが…。
はぁっ?! 何言ってんの??
まがりなりにも家康は豊臣政権内で五大老筆頭ですよ?
秀吉亡き後の政権運営を行って当然の立場ですよ??
と言うか、秀吉こそ信長没後の織田政権を奪ってやしませんか???
秀吉が織田三法師ちゃんから天下を盗るのは許されて
家康が体裁を整えた上で天下の主になるのは許されないんですか????
おかしーでしょ????? (▼▼メ
政権泥棒と言うならば、むしろ秀吉の方ですわな。
信長没後、秀吉には政権を担う正当性は何も無かった筈だ!
義だの何だの言うならば、なぜ君達は柴田勝家を賛美しないのだ !!
織田家筆頭家老の勝家が、信長の遺児である信孝を奉戴する方が
よほど義のある形ではないか? 秀吉が天下を取って許されるのならば
政務担当能力が当時まだなかった秀頼に代わって
家康が最高権力者の座に着くのは、至極当然の事ではないのかい?



そもそも「義があるから」西軍諸将を賛美するというのは本末転倒。
武士は忠義の士である、ってのは徳川政権で作られた思想だぜ?

武士の起こりは開拓者、自分で切り開いた土地を守る為に武装した者たち。
鎌倉時代の武士は「御恩と奉公」つまり「土地をくれるから主君に仕える」訳。
ところが元寇のせいで「奉公しても御恩がない」事になり、制度が破綻。
(話が逸れるけど、という事は元寇は日本の国家体制そのものを破壊した訳で…これってどーなのよ大陸の諸君)
室町時代は自力救済が当たり前の「やられたらやり返す」世界、
これが戦国時代になると更に過激な「殺られる前に殺る」ように…。
徳川幕藩体制が確立するにつれ「土地給恩での限界」が(上級権力者側で)意識され
将軍を絶対的君主として奉戴する権威付け理論である朱子学との相乗効果で
「武士は主君に忠義を貫く者」と位置づけられたんですわな。
つまり「『土地をよこせ』なんて言うな!」とは正面切って言えない代わりに
「武士は滅私奉公、義を持たぬ者は恥ずべき者」という思想統制をかけたのね。
要するに、「義」の概念とは無償で忠勤させる為の理論武装…というのは
大学レベルの社会学を勉強した人には常識。まぁ、経緯は置いておくとして
関ヶ原時点での武士はまだ朱子学以前の思想にある状態だから
「勝って領地をぶん取ってやる!」という人ばかりの筈で
「亡き太閤殿下への忠義を」なんていう人は(全く0とは言わないが)殆ど居ないのが当然。
少々えげつない言い方になるが、西軍に付いた連中とて権勢欲があった訳で
「家康が新体制作るより、今までの政権の方がオレにとってやりやすい」ってのが
本音だと思うぜ?(それが“旧政権(豊臣政権)を守る”っていう風に美化されただけ)
それなのに、「義がある武将が素敵〜♪」なんて言っちゃったら―――
徳川を倒そうとした人間を、
徳川の思想で褒め称えている事になっちゃうよ?




何だか話が散り散りになっちまったけど、つまりそれは
豊臣政権(の時代や人物)がそれだけ制度矛盾の中にあったって事の裏写し。
秀吉の時代は10年弱しかなかったから、それが然程目立たないで終わっただけの事で
これが秀頼やその次代(国松か?w)まで続いていたら、
早晩、政権は破綻して戦国時代に逆行…なんて感じだったんじゃないのかなぁ?
だからさ、それを阻止した家康はやっぱり偉いのよ。
そしてやっぱり、秀吉はそんなに偉くもないって事なのよ。
「天下を統べた者」は、必ずしも「天下を制した者」ではないというお話でした。


※念のため申し上げておきますが (^ ^;
今回、大陸や半島との関係云々を書き記しましたが
別段、わたくしめはネトウヨとかそーゆーんではございません。
何せ「秀吉なんざ我が国外交の大恥」とか言っちゃう位ですしw
あちらの国との関係も、平穏無事ならそれで良い訳です。
ただまぁ、最近の国際情勢はそうとばかり言ってられない感じなんで
歴史を紐解けば、一方的にどっちが被害者だとか加害者だとか
そういう論は成り立たないんじゃない?と思うだけでございます m(_ _)m




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