★★★相州乱波の勝手放談 ★★★
#06 関ヶ原、金吾秀秋への銃撃云々
 




小早川秀秋 きんごちゅうなごん こばやかわひであき
金吾中納言、小早川秀秋。秀吉正室・寧子の縁者であった事から、一時は豊臣家の
後継者候補に数えられていた。しかし秀頼の誕生によってその座を追われ、毛利家の
後嗣に宛がわれそうになるが、才幹に乏しい事を見抜いた毛利家重鎮・小早川隆景が
宗家を守る為、ぜひ自分の養子にと引き取ったと言われる。関ヶ原合戦時は豊家への
鬱屈した念を抱えつつ西軍に与したが、東西両軍からの降誘に惑っていた。


唐突だが、拙者は関ヶ原合戦に関して東軍派であ(もういいって、この行はwww)


以前、関ヶ原を取り上げた番組収録に参加した(する事になった)時のこと。
西軍派の方々が、小早川秀秋について語る場面があった。
まぁ、秀秋の裏切りは西軍派の人にとってみれば許しがたい行為だし
アイツさえあんな事をしなければ、といって恨むのは致し方ないと思う。
東軍派の拙者とて、秀秋の“日和見”的な寝返りは好きになれないし
あれがなければ、恐らく西軍が優位のまま終わっていたと思う。
「おのれ金吾!」と罵りたくなるのもわからなくはない。

※小早川の裏切り
まぁ、言うまでも無い有名な話なんですが念のために解説。
合戦前日、松尾山という関ヶ原盆地を一望できる“特等席”に陣取った
小早川勢は、開戦当初はまったく動かず、戦況を傍観しておりました。
それでも優勢に事を進めていた西軍が、これで小早川軍が参戦すれば
我が方の勝利間違いなし、早く攻撃開始を…と散々督促した結果
何と秀秋は西軍を裏切り、東軍に味方してしまうのであります。
これにより戦況は激変、他の裏切り部隊まで発生させた挙句
西軍は総崩れとなり、たった1日だけで
「天下を決する程の大戦」が終わってしまいます。
そりゃ、西軍派は恨んでも恨みきれない相手でしょうなぁ (^ ^;


ところが話はどんどん脱線して、しまいには
家康が秀秋の裏切りを催促する銃撃の話へ。
小早川軍は1万5000を超す大軍勢、開戦前から東西両軍より
「我が方へ味方せよ」と降誘されておりました。秀秋は西軍に就きつつ
東軍にも味方する旨を伝えており、実は二枚舌状態。
寝返る約束を受けていた家康としては、1万5000の軍勢がどう動くかにより
勝利の行方が懸かっていた訳ですな。ところが秀秋は松尾山の上で見物を決め込み
(要するに、どっちへ付くべきか開戦してもなお迷っていた訳でw)
傍から見れば、いつまで経っても動きそうにない。西軍からの督促にさえ
腰を上げない秀秋が東軍にも付かず、このまま時間だけが過ぎていっては
西軍優勢のまま戦いが終わってしまう。これでは敗北が決定的となる家康は
苛立ち、遂には「早く動け」という意味で威嚇射撃を行います。
西軍からは使者や狼煙ばかりでしたが、東軍は発砲してきた事に
秀秋は「内府殿(家康)が怒っている!」と恐慌に陥り、
それを機に寝返りを決断する訳ですが…。

この銃撃に関して、西軍ラブリーな方々が申すには
「家康の陣所から遥か遠くの松尾山へ撃っても、弾は届かない」
「そもそも低地から山の上へ撃ったって当たる筈がない」
「こんなので無駄弾を使うなんて、家康は馬鹿だ」などなど。

――― 馬 鹿 は お 前 ら だ !! (▼▼メ
あのさぁ、家康は威嚇射撃として発砲した訳でしょ?
当てる必要はない、それどころか小早川軍が味方につく事を見越しての
銃撃なんだから、本当に当てたら戦力を減らす同士討ちになるだけでしょ?
“意思表示”としての発砲なんだから
「家康が撃ってきた!」という情報さえ伝われば良いって事でしょ?
何をそんなに「当たる当たらない」なんていう不毛な論争してるの ??
松尾山からじゃ発砲音も聞こえないとか、
発砲炎も確認できないとか言う人も居たけど
むしろ混乱する戦場の中なら「家康が発砲してきた『らしい』」程度の方が
よっぽど不安感を煽る効果があって有効だと思う(何せ情報戦としての発砲だもん)。
本当に発砲したかどうかなんて、直接的には判らなくて良いくらいなんじゃないの?

結局さぁ、西軍フリークの人は負けた事が悔しくて
何でもいいから家康にケチつけたいだけなんじゃないの?
これぞまさに負け惜しみ、負け犬の遠吠えってヤツで
そういう貶し方って、ますます西軍派の品位を落とすだけだと思うんだよね。
鉄砲弾は当たらなくとも、作戦としては的を得ていたんだから
むしろ「いやぁ、家康には恐れ入りました」くらいに潔くした方が良いんじゃね?
東軍派の拙者としては、貶されて腹が立つというよりかは
「こんな連中と今この場に一緒に居るのが恥ずかしい」って感じでした…(泣)

さらに話が続くと、↑にある秀秋の肖像画(小早川秀秋の肖像画と言ったらこれ)についてまで
「垂れ目で弱々しい」「頼りなさそう」「格好悪い」などの悪口雑言。
あのさぁ、肖像画にまでケチつけるのってどんだけ見境ないのさ?
武将としての器量とか、全然関係なしって考え方だよねぇ。そもそも、
これは当時の画風な訳だし、写真ほどに精度が高い訳でもないんだから
そういう非難って、もはや誹謗中傷でしかないんじゃないの?全く… (ー゙ー;
―――と思ってたら、拙者の隣に居たうださん(知識量ハンパない人です)が口を開き
「これは豊臣政権が最も安定していた頃、豊臣一門の権威を示して描かれたもので
 わざと公家風に描き、品位を表したもの。平和な時代を表現するための絵だから
 荒々しい武士の風体ではなく、優しく優雅な人物像としたのは当然の事」
と発言。
ほーら見ろ、ちゃんと勉強している人はモノの本質をわかっていらっしゃる!
「肖像画が残される人物」というのは、つまりそれだけ重要な人物なんだから
画像にもそれなりの意味や意図が籠められているって事だろ?
それこそ家康は、三方ヶ原合戦の直後に自らの憔悴しきった姿を絵師に描かせ
自らの無謀を戒める教訓にしようとした程なんだから、やれ絵が上手い下手だとか
格好良いとか悪いとか、そういう“上辺だけ”で物事を見ちゃいかんという事でしょ。
あの時、秀秋像に文句つけた人はむしろあの絵を自分自身への教訓にしなさいッ!

※家康の画像
若き日の家康、居城の浜松城に武田信玄の大軍勢が迫り
あわや滅亡寸前の危機を迎えます。ところが信玄は、浜松城を無視し
城下をゆうゆうと行進、もはや家康など眼中にないという行動を。
これに激怒した家康は劣勢を省みずに出陣しますが、それこそ信玄の狙いで
城を出た徳川軍は散々に打ち負かされ、あわや家康討ち死に寸前へと追い込まれました。
世に言う三方ヶ原の合戦、大敗を教訓とし二度と無謀な戦をしないと誓った家康は
恥じ入るべき自分の姿を絵に残し、その後の人生の戒めとしました。
この絵がいわゆる家康の「しかみ像」と呼ばれるもので、一般的にイメージされる
“ふくよかで堂々とした家康”の姿とはかけ離れた“やせ細り苦悶する風体”。
覇業に突き進む戦国武将は普通、自分の恥ずかしい姿など残さないものですが
家康は逆にそれをきちんと残して自戒したというのだから、やはり
なるべくしてなった天下人だと言えましょう!


              ↓一般的な家康像 と しかみ像↓ こんなに違う…
徳川家康しかみ像




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