★★★相州乱波の勝手放談 ★★★
#05 小田原城の売り込み方
 




先般、小田原城の大外郭を見分するオフ会に参加させて頂いた。
一通り町歩きを終えた後、懇親会(要するに飲み会ねw)にも顔を出し
当日の案内をして下さった小田原城郭研究会の山口先生とお話させて頂く機会を得た。
(山口先生、その節は大変お世話になりました m(_ _)m)
小田原城の現状についてお聞きしたところ、近世城郭部分については
ボチボチ整備復元が進んでいるが、中世城郭部分は後手後手に回っているとの事。
しかも、整備を検討しようにも市民の熱意が全然ない。
それどころか「小田原に城があった事を認識すらしていない人が多い」んだそうだ。
え゙ーっ!! 何だよそれ! (><)

※小田原城
江戸時代に入ってから、いわゆる“大名が住む城”として使われたのが近世城郭。
それより以前、戦国時代に“戦時の要塞”として使われたのが中世城郭。
小田原城は中世から継続的に使われ、近世も活用された城だが
戦国時代は城下町全体をも囲い込む、当時としては「日本最大の城郭」であった。
大外郭と言うのは、この「町全体を囲い込む」防衛構造ラインの事。
あまりに巨大すぎる城郭は、徳川幕藩体制下では不要のものとされ
幕府の意向に沿うサイズに縮小されてしまった。つまり、観光名所としての
小田原城とは江戸時代に入ってからの限定された敷地でしかなく
小田原市の郊外部分には、今なお眠る巨大遺構が残されているのだ。



今や城郭は立派な観光資源!
日本全国に散らばる城下町は、こぞって“我が町の城”を売り込み
観光収入や風致の向上を目指している。それなのに、小田原は…。
観光客に宣伝するどころか、市民にさえ知名度が無いなんて―――(大ショック)

市民に知られない城が、観光客に知られる筈もない。
そんなんだから、復元整備もままならないし、予算も付かないんだよ!
これはイカン!相州の住人として、何としても小田原城の知名度を上げなくてはイカン!!



ではここで、他の城下町の例を考えてみる。
近年、観光名所として知名度を激増させた城をいくつか挙げてみると…。
★彦根城
 言わずと知れた「ひこにゃん」の城 
 最近では佐和山城で三成人気を当て込み、セット販売(笑) 
☆姫路城
 何と言っても世界遺産! 
★名古屋城
 本家“おもてなし武将隊”はアイドル顔負けの活躍 
☆熊本城
 本丸御殿復元で観光客激増 !! 
★上田城
 猫も杓子も、真田人気さまさま… 
☆金沢城
 熊本に負けず劣らず、城址復元に執念 
次点で五稜郭、箱館奉行所復元&土方歳三戦死の地…といった感じでしょうか。
さてこれをちょっとした法則に当てはめて図表化するとこんな風に
人気度×傾向
独断と偏見であるが、人気度と傾向の図である。言わずもがな、表の上下は人気度で
左右は傾向。ぶっちゃけて言えば、左ほどナンパで右ならば硬派な宣伝方法(笑)
ゆるキャラや武将人気を当て込んだのは歴女ターゲットと言った感じだし
本格完全復元を目指すやり方は、歴史に忠実であれ!という思想が見て取れる。
名古屋城は武将隊だけじゃなく本丸御殿復元もやってるし
熊本城はその逆で、くま□ンやひご●くんをPRに使っているので
それぞれ、やや中間に近い位置付けにしてみた。
五稜郭はウリ文句のまんま=両刀使いという事でw

では小田原城は、どの位置を目指すべきか?

個人的には、これくらいを狙ってほしいものだが…
さすがに高望み? (^^;
ひこにゃんや世界遺産の上を行くのは、さすがに欲張りすぎなので
(でも、本来小田原城ならばそれくらいのポテンシャルはあると思うw)
これくらいは行ける筈!
現実的には、このあたりが妥当なところか?いや、これくらいは行ける筈!
熊本城には敵わないまでも、金沢城は追い越すべし。
(いや、別に金沢を敵視するという意味ではなくてね、そのあたりを目指そうという事で)
ユルいか硬いかというバランスでは―――城好き、特に地元の城という事で
やっぱり硬派な線を狙って欲しいという“願望”があるけれど、それを抜きにしても
小田原城であまりナンパなイメージはないよなぁ…。
というか「いぶし銀」的な感じじゃない?小田原城って (^ ^;
ってな訳で、図表では熊本城の下あたりに付けてみました。

とは言え!
やっぱり歴女人気とか、ゆるキャラブームとか、一般ウケするのは軟派なライン。
人気上昇の起爆剤にするならば、ナンパな手法を採るのも致し方なし…。
表を見てもらえば判るように、
「姫路城・熊本城・金沢城」の組み合わせに対し、総じて
「彦根城・名古屋城・上田城」の組み合わせの方が上を行っている。
悔しいかな、城本来の魅力をアピールするより
付加価値の方が重点的に売れるようになってる御時世な訳さね。
「ひこにゃん&いしみつ(←石田三成の事ね)」の爆発的人気、異常だよなぁ…。
個人的に、武将をアイドル化とか神格化(いしみつはまさにこれね)するのって
むしろその武将を冒涜する行為だと思うんで、本当のファンならば
そんな事しちゃイカンと思うんだがなぁ…。
だいたい、真田幸村なんて上田城じゃ活躍してないじゃん(あ、暴言…www)
まぁ、そういう善し悪しの話は置いといて(苦笑)売り込み方としては
道のりは遠い…
いきなりこういう地道な方法では無理がある or 時間がかかるだけなので
即効性を求めるならば
即効性を求めるならば、やはりこういう手法だろう。
何でも良いから(というとヤな言い方だがw)一般ウケする宣伝で
兎にも角にも知名度をガンガン上げ、「小田原は城の町」というイメージを
定着させてから、真面目な路線に方向転換。以後は硬派な路線を堅持。
これで時間も経費も節約 ?!(笑)

さて、そこで問題となるのが
小田原城の宣伝文句、ウリとなるポイントである。
彦根城と言えばひこにゃん、熊本城と言えば本丸御殿、
では小田原城と言えば―――何?という話だ。
こうしたセールスポイント次第で、状況は右にも左にも転がっていく訳で
企業のイメージ戦略同様、非常に重要なものと言える。
だって、「日本にある世界遺産の城は?」と訊いたら
ほぼ100%の人が「姫路城!」って答えるでしょ?
(実際は二条城や琉球のグスクもそうなのに)
やっぱり、ブレない宣伝文句が必要なのですよ。

そこで、小田原の歴史や風土を考慮したキャッチフレーズを
いくつか(勝手に)考えてみた(笑)


・北条五代の城
 
これは今現在、小田原市が使っている宣伝文句。
やっぱり城主をウリにするのは当然の事だろう。
戦国期、類稀なる「民政家」としてしっかりとした勢力を張った小田原後北条氏。
相州の民として、日本全国に誇れる優れた大名である。
が!誠に残念ながら、いかんせん知名度に乏しい…。
「北条氏って誰?」「鎌倉時代の人?(そりゃ執権北条氏だよ)」などなど
小田原後北条氏、一般的には殆ど全く知られていないのが実情。
歴女さん達のウケも今ひとつ (ー゙ー;まぁ、あまりそうなって欲しくも無いがw
愛民の情に溢れた名施政者ゆえ、逆に華々しい戦歴は少なく
信玄vs謙信とか、真田日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)とか
そういう“猛将”のイメージは程遠い。実際には、初代・早雲の知略や
3代・氏康が果たした河越夜戦(日本三大夜戦の一つ)の勝利とか
色々な戦績がある筈なんだけどねー…。何とか後北条氏の知名度を上げるべく
大河ドラマの招聘とかしてるみたいだけど、それもいつになる事やら?
と言うか、大河でイメージアップというのも善し悪し(売れない場合もw)だし。
とりあえず「城主で攻める作戦」小田原ではあまり上手く行きそうにない。


・全国の諸大名、ここに結集!
・政宗も三成も元親も、みな小田原を目指した―――
 
では逆手にとって、小田原を攻めた連中を引き合いに出してみる。
豊臣秀吉の天下統一事業の最終局面となったのが、小田原攻めである。
秀吉は金と権力にモノを言わせて全国の諸大名に動員令を発し
並居る名将がこぞって小田原の城(町)を取り囲んだ訳である。
伊達政宗も石田三成も長宗我部元親も、猫も杓子も小田原に参陣したのだから
小田原城は“戦国オールスター総決算”の舞台だったと解釈できる。
という事で、歴女ウケする武将を引っ張り出して
「どうだ、小田原城こそ戦国の聖地だ!」と売り込んで見るのはどうだろうか?
これならば、彦根城が佐和山城(三成の居城ね)をセット販売しているのと同じく
小田原城&石垣山城でWアピールできるぞ! (^ー゚)b


・謙信、信玄、それに秀吉…三巨頭が攻めあぐねた城
 
攻め手を使うと言うならば、こういう売り文句だって可能な筈だ。
小田原城は天下の堅城、上杉謙信(当時は長尾景虎)や武田信玄が攻めたとて
落城しなかった上、秀吉の小田原攻めも最終的には“開城”であって
“落城”はしていない。っつーか、秀吉なんか小田原城の優れた技巧を目にして
自分の城である大坂城に障子堀や総構(そうがまえ)を作った程だし。
これこそ天下第一の名城である証左!
何千、何万という敵を向こうに回そうとも不敗を誇る城という点は
もっともっとアピールすべき宣伝文句に違いない !!

※障子堀や総構
障子堀とは、堀底をさらに細かい土手で仕切り
まるで障子の骨組みのような窪地にした構造。
後北条氏が作った城に多用されていた城郭構造物だ。
総構は上に記した大外郭ラインの事。
こうした防御構造で守られた小田原城は鉄壁の堅固さを誇り
攻めに来た豊臣軍は、ほとんど城内に入れなかったのである。
戦役後、小田原城の見事さに驚愕した秀吉は
大坂城をはじめ、京都の聚楽第(じゅらくだい)など
自身の城にこうした構造を取り込んだ。

・この町には、戦国最大の城が眠っている
 
城郭構造の話をするならば、これに限るだろう。
日本の都市形態をいくつか分類すると、寺社の前に町が栄えた門前町や
港湾水運を目当てに商業地が拡大した港町、街道に沿って宿や店が並ぶ宿場町、
それに城を中心に市街が広がる城下町などに分けられる。
普通、城下町は「城の外に町がある」訳だが、何度も記した通り
小田原は「町を囲う大外郭がある」程の超巨大城下町なのだ。
総構の概念は、秀吉や家康が整備した天下人の町に発展継承されたため
時代を問わず「日本一大きな城」と言うならば文句なしに江戸城という事になるが
その前段階、“戦国時代”あるいは“中世”という時代区分においては
ダントツに小田原城が日本一の規模だった訳だ。
誇大広告や誤解とならないように、言葉の選び方に注意が必要だけれども
(これは山口先生も仰ってました)
やっぱり「日本一の城」という点は是非ともアピールしたいものである!


・戦国は―――小田原に始まり小田原に終わる!
 
歴史という観点から攻めるならば、このキャッチフレーズ!
学校の教科書で「人の世虚し(1467年)応仁の乱」が戦国時代の始まりと教わった方、
それはもう、今では古い考え方。地方勢力が自力で自活を始めた事こそ
戦国大名の登場、戦国時代の幕開けとするのが近年の主流になりつつある。
ではそうした戦国大名の“祖”とされるのは誰か?
実はこれこそ、小田原後北条氏の初代である北条早雲その人なのだ!
早雲の登場により、室町旧体制の破壊が始まった…というのが
戦国時代のスタート、と考えるようになってきている。
一方、戦国争乱の終幕戦となるのは言うまでも無く秀吉の小田原攻め。
となれば、後北条5代の戦歴こそが戦国時代という歴史そのものと言える。
神奈川県で注目される歴史的事件・地勢と言うと、源頼朝が幕府を開いた鎌倉と
幕末以来の港湾都市として発展した横浜ばかりが注目されますが
実は!小田原は秘めたる偉業を果たした重要な町なのだぁーッ !!


・江戸時代250年の太平は小田原から?!
 
歴史に注目するならば、こういう切り口だってアリ!
は?何これ??と思う方もいらっしゃるでしょうが
読んで字の如く、であります。
秀吉に敗れ、滅亡した小田原後北条氏。広大な関東の遺領を引き継いだのは
後に征夷大将軍となる徳川家康。家康はそれまでの東海地方を離れ
見ず知らずの土地、関東へやってきた訳です。通常、戦国大名が国替えとなると
新たな領主に反発し、旧主の治世を復活させようとする騒動が起きるもの。
実は秀吉もこれを狙って、わざと家康を未開の関東へ移したという陰謀説がある程。
ところが家康は、大した争乱も起こさず平穏なまま関東への移封を達成します。
これは、後北条氏が用いていた統治体制をほぼそのまま引き継いだ事で
在地の民衆との軋轢を上手く回避したから。それどころか、幕府開設後も
この制度を発展整備させ、日本全国の支配体制へと進化させていきます。
後北条氏の統治体制は、官僚制による優れた合議制により運営されていて
当主の力量がどうであろうが(勿論、北条5代は押並べて優秀な当主でしたが)
領地の隅々まで、画一的な支配が浸透するようになっておりました。
これが江戸幕府において、老中や若年寄による政治運営の基礎となっていき
例えば7代・家継のような幼児将軍、13代・家定のような病弱将軍であっても
問題なく政治が進められたというのはご存知の通り。それだけでなく、
幕政支配の根幹を成した街道整備や伝馬制などは、後北条氏の時代から始まってました。
後北条氏の政治と言うと、悪名高い「小田原評定」という言葉ばかりが有名ですが
それは回避不能な最悪の局面が直撃したからであって、通常は
万事滞りなく、最良の選択が全土に展開されていた訳です。
徳川氏は武田氏の軍制を採り入れたという事は比較的知られていますが
一方、政治制度は後北条氏の手本があってこそ。そしてそれは、江戸時代250年に及ぶ
天下泰平を約束する素晴らしいものだった点、もっともっと宣伝しませう!

※武田氏の軍制
家康がまだ秀吉と覇を競っていた頃の事、
徳川家の重臣にして西三河衆筆頭であった石川数正が
突如(理由は諸説あり)秀吉の下に出奔する事件が発生。
これにより、徳川の軍事機密は全て筒抜けに…。
事態を重視した家康は、ちょうどその前に併合した
旧武田氏の領地から武田遺臣を大量に抜擢、
軍制改革を断行した。これにより、秀吉に知られた機密は
過去のものとなった上、かの“武田騎馬隊”で名を馳せた
勇猛果敢な軍隊を自軍に取り込む事を達成している。




とまぁ、いくつか書き連ねてみたが(笑)
比較的、前に書いたのは“軟派系”、中ほどが“硬派系”、
そして後ろの方は“奇抜系”と言った感じでしょうか? (^ ^;
売り込みの起爆剤になるのはやっぱりナンパな方かな〜。
これで観光客(まぁ、キモになるのは歴女さん達だろうけど)の注目を惹いて
ガツンと知名度や観光収入の増加を目指す!然る後、硬派なウリへとシフトして
小田原城のスケール感やいぶし銀な魅力を固定させるのが戦略。
当然、住民の注目も同じようにという所だけど
むしろ、観光客が激増する事で否応なしに(後づけ的になるけど)
小田原市民は「小田原城の保護をしなくてはならない」っていう
義務感を抱いてもらう事になるかもね(爆)

熊本城や金沢城が全城復元整備を目指しているけれど、
それはあくまでも“近世城郭”としての復元整備。
もし小田原城が、近世城郭部分と中世城郭部分の両方を復元整備できれば
(もちろん、時代考証やどの部分を近世/中世にするかとかを考えての上で)
これはもう、日本随一の「城郭都市」が再生する訳で
考えただけでゾクゾクしてきますな!
住民生活の維持と両立する形で、何とか上手く出来れば良いのですが…。

尤も、イメージ戦略には「時々に応じた新しいネタ(売り文句)」だけじゃなく
一貫不変で動じない「核になるもの」が絶対必要。「北条五代の城」というのが
たぶんそれに相当するものなんだろうけど、それならばまず
「北条五代とは何ぞや?」という宣伝にまで遡らないとならないのが苦しい。
信玄や謙信と向こうを張った北条氏康を筆頭にして、
大河ドラマだけじゃなく、メディア戦略が必要になるだろうねー。
例えば歴史モノのTV番組とか、出版物とか、ゲームとか、何でもいいから
“氏康アピール”で爆発的注目を集める方法はないだろうか?

…う〜ん、これほどの名将なのに何でこんなに知名度が低いんだろう (><)

とりあえず小田原市民の皆さん!
あなた方の足元には物凄い城が眠ってるんですよ!!
小田原の有名なものは…
干物と蒲鉾だけじゃない筈ですっ !!




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