★★★相州乱波の勝手放談 ★★★
#04 真田幸村の特攻…?
 




真田幸村 (C)KOEI さなださえもんのすけのぶしげ
真田左衛門佐信繁。戦国の謀将、真田昌幸の2男。父は信州の小大名に
過ぎなかったが、徳川軍の攻勢を2度も撃退し“家康の天敵”と言わしめる。
信繁も父の薫陶を受け勇将に成長、大坂夏の陣で家康をあと一歩の所まで
追い詰めた。その働きは“真田日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)”と
称される。「幸村」は小説や講談などで付けられた俗称。


唐突だが、拙者は関ヶ原合戦に関して東軍派である。
(前にも使ったぞ、この言い回しwww)

東軍総帥、天下の覇者である徳川家康は尊敬に値すると信じて止まない。
その家康公、東照大権現様を苦しめた真田と言う輩は…
輩は…
輩は…
素直に凄いと思います、ハイ (^ ^;
あの徳川家康を心胆寒からしめるなんて、驚愕の存在です。
いやぁ、真田には勝てません!(キッパリ)

城好きの人間にとって、上田城の攻防戦って
「これぞ城をフルに活用した、戦史に残る名戦」と賞賛できる戦い。
第1次会戦は、策略でわざと攻城軍をおびき寄せて一斉殲滅、
第2次会戦は、とにかく時間稼ぎさえすれば目的は達するんだから
ひたすらそれを徹底。どちらも真田昌幸の智謀が光った戦いですな。
そりゃ“家康の天敵”と渾名されるのも当然だよね。

※上田城攻防戦
第1次合戦は1585年、徳川家と真田家が外交で対立した事を契機に
徳川軍が昌幸の居城・上田城を攻めた戦い。圧倒的大軍で攻めた徳川方だが
城と城下町を巨大な罠とした昌幸の策謀で壊滅的打撃を受けた。
第2次合戦は1600年、関ヶ原に向かおうとする徳川旗本軍の進路上に
上田城が立ち塞がり抵抗、のらりくらりと攻め手をかわし
気が付けば、この軍勢は関ヶ原本戦に間に合わなくなっていた。

大坂の陣の折、「真田が大坂城に入った」という報を受け
家康は手をガタガタ震わせ「親か子か?(昌幸か、それとも信繁か?)」と訊ねる。
「親の方は既に先年に没し、子の方でございます」と告げられた家康は
ようやく手の震えが収まったと言う。それほどまでに、真田昌幸の智謀は
家康にとって恐ろしいものだったのだろう。

―――ん?と言う事は、信繁だったらどうでもいいって事??と思った方、鋭い。
結論から申し上げれば、この時点ではそうだったという事になりましょうな。
上田の戦いで徳川軍を引っ掻き回したのは全て昌幸の謀略。
信繁は、父・昌幸の手駒として戦いこそすれ
単なる一将兵に過ぎず、これと言って何かした訳では…。
つまり信繁という人物、大坂の陣までは殆ど実績のない無名の将!
大坂の陣が実質的なデビュー戦だった訳で、そりゃ家康が
昌幸のように恐れる必要はない、と安心するのも当然というもの。
んで、冬の陣では真田丸という出城を構えて幕府軍を翻弄する訳ですが
ここで引っかかった連中は、大半が世代交代で新たに戦場へ出てきたような連中。
初陣で、調子に乗って戦の駆け引きも考えずに突っ込んだ輩なんで
まぁ、散々に打ち負かされても当然でしょうな。実際、家康自身は
真田は相手にせず、各自勝手に攻める事は厳禁と命じていた程だし。
百戦錬磨の家康は、小童の信繁と言えど“真田ブランド”ならば
これくらいはやらかすだろうと予想していたという事ですわな。
まだまだ冬の陣は(真田丸にしてやられたけれど)“想定内”程度だった訳で。

そんなこんなで、いよいよ夏の陣。
既に大坂城は堀を埋められた裸城、豊臣勢は籠城という選択肢は取れず
どうあっても野戦で決着をつけるしかない。
家康としては戦う前から結果が見えていて
もはや戦力差が如何ともし難い大坂方に勝機などある筈がない…。
大御所が「此度の戦いは、3日で終わる」と豪語したのも当然でありましょう。
そこへ降って湧いたような大番狂わせ、真田の特攻で家康本陣は突き崩され
「もはやこれまで」と言わんばかりに、あわや自刃を覚悟するまでの
大混乱!というのが“日本一の兵”の所以。確かにここで家康が死んでいたら
桶狭間の今川義元よろしく、その後の歴史は大きく変わっていた事でしょう。
今日、武将ブームで持て囃される“真田幸村”という人物は
さも「連戦連勝、戦の天才」という風に語り継がれておりますが
実はこの一戦だけで、件の伝説は作り上げられたものなのでございます。

そりゃまぁ、必勝体制にあった幕府軍の、しかも総大将の本陣ともなれば
相当に分厚い防備を敷き、万全の構えであったはず。それなのに
たった1人の将が率いる小部隊の突撃を食らっただけで、いとも容易く切り裂かれ
天下人の命が危うい所にまで追い詰められたなんて事になりゃ
“判官贔屓”の国民性、弱い者が強い者に一矢報いる痛快な筋書きが大好きな人々は
拍手喝采して真田の武勇を褒め称えるでしょうなぁ。

で、話はちょっと逸れまして、その“判官”について。
九郎判官、語源となった人物である源義経は真田幸村と同様に戦の天才。
源平合戦で大活躍しておきながら、兄・頼朝の鎌倉幕府開設構想の邪魔になると
疎まれ、不遇の最期を遂げた事が悲劇のヒーローとされ、“判官贔屓”の心情へ。
経歴はともあれ、話の主題は源平合戦の戦いぶりについてなんですが
義経の戦いと言えば、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の3合戦が特に有名です。
このうち、一ノ谷の戦いは(賛否色々ありますが)平氏軍が陣取る場所の裏山から
崖を真っ逆さまに駆け下りて急襲したという戦い。馬の機動力を活かした
“陸の王者”源氏ならではの戦いです。屋島の戦いは、暴風雨の隙を突いて
渡海を果たし、これまた平氏の油断を狙った大逆転劇であります。
そしてクライマックスとなるのが壇ノ浦の戦い。軍船同士が激しくぶつかり合う中
義経は神がかり的な采配で平氏方の水軍を圧倒、遂に平氏一門は波に没し
源氏方の完全勝利を成し遂げた、というのは皆様ご存知でしょう。
が、しかし!そこには重大な落とし穴が !!
陸の王者である源氏が、海賊(当時の意味で「海兵」的な存在)衆を従えた平氏に
そんな簡単に海戦で勝てるモンなのか?と思いませんか??
実は源氏方、壇ノ浦の戦いでは「反則行為」を使ってしまっておりました。
海の戦いでは、船を操る水夫(かこ)を射てはいけないという
当時の暗黙のルールがあったのですが、源氏方はそれに反して
真っ先に平氏の船の水夫を射殺していきました。
つまり、陸の戦いで言うなれば武者ではなく馬を射る行為、
正々堂々太刀切り結ぶ武士の慣わしに外れた卑怯な振る舞いです。
義経はこの禁忌を(知ってか知らずか)犯す戦術で壇ノ浦を戦ったが為に
当初の予想を覆し、源氏軍の圧倒的勝利に結び付けました。
そりゃ、操る人が居ない船じゃ戦えやしないからねぇ…。

※当初の予想を覆し
現代では、壇ノ浦は“平氏の最後の悪あがき”と思われているが
実はそうでもなく、この戦いで生き延びれば西国の支配地で戦力を建て直し
平氏が再び攻勢へ転ずる事ができる可能性を持っていた。と言うかむしろ
当時の時流はそういう矛先へ向かうと誰もが思っていた。そうでなければ
わざわざ源氏方と正面切って戦う必要などなかった筈である。
平氏軍としては、得意の水戦で源氏の追撃を食い止めるつもりだったのだが
義経の(偶発的とは言え非常識な)戦法には、手足をもがれるしかなかったのだ。

別に義経の作戦を非難しようと言うのではない。勝つ為に手段は選ばぬ、というのは
実に合理的で正しい思考である。ただ、非常識な作戦により
勝てる(勝つつもりであった)平氏軍はまさかの大敗北を喫した、という点に注目したい。
これ、実は真田幸村の特攻にも当てはまるんじゃないでせうか? (^ ^;
具体的に確たる証拠がある訳でもなく、単に個人的推論に過ぎないんですが
何かそういう“裏ワザ”的なものを使ったからこそ、家康本陣が
総崩れになったという事にはなりませんかねぇ?

例えば…徒歩(かち)なし部隊の編成とか
もっと言うと…「TVドラマとかで見るような」騎馬部隊での突撃とか。

何、言ってる意味がわからない?(汗)
えーっと、戦国時代の戦闘部隊って、騎馬に乗った武者とか
槍持ちの兵、鉄砲兵、その他もろもろの混成部隊なのが当たり前。
その他もろもろというのには、兵糧や諸道具を運搬する荷駄役とか
下働きをする下男とか(これはもはや戦闘員ではない)そういうのも含まれます。
当然、家康の本陣に詰めている面々というのも
全部が全部、正規の侍ばかりという訳ではなく雑多な人員を含めてのもの。
家康のみならず、どこの陣だってこうした混成部隊です。
ゲームや漫画のように、「騎馬だけ」「鉄砲だけ」なんて部隊じゃないんですよ!
ところがこれに対する“幸村”は、そういう混成部隊にはせず
(まぁ、守備側なんで荷駄役なんかは不要だったとは思いますが)
徒歩を省いたバリバリの戦闘員オンリーで突っ込んだ…なんていう
(つまり「ゲームのような部隊」を作り上げてしまった、という感じ)
可能性は有りや無しや?もっと言うと、それが全部馬上兵で
しかも馬に乗ったまま敵陣に突っ込んだとなれば、そりゃ異常な兵力という事に!

戦国モノのTVドラマだと、騎馬隊の突撃シーンは必ずといって良いほど
そういう風に描かれますが、実は当時の騎馬兵の使い方というのは全然違くて
馬はあくまでも兵や荷物を運搬する時にだけ使うもの、敵陣への突撃も
(大将クラスは別としても)“乗馬のまま”敵部隊の奥深くまで
入り込むなんて事はないのであります。   ※馬上にある大将とて、必ず徒歩の従者が付きます
勇猛果敢な武田騎馬隊なんてのも、実はその程度のものに過ぎません。
そもそも純血の日本馬は、木曽馬や都井岬の放牧馬、道産子の農耕馬なんかのように
(もっとも、今現在に生き延びる純血の日本馬ってもう木曽馬しか居ないそうですが)
背が低く、足が太く、寸胴なのが特徴。ドラマじゃ演出でサラブレッドとか使いますけど
そういう“疾走する奔馬”ではなく、“じっくりと重労働できる馬”な訳。
だからあくまでも「運搬役」が本来の使い方であり
「突撃部隊」みたいな使い方はフツーやらない。なので、もし幸村が
それをやったとなれば、そりゃ家康の本陣が大混乱になるのも道理。
何せ、義経同様に“非常識な戦い方”を仕掛けられているんだから…。

義経の所でも申し上げましたが、別にそれが悪いとか言ってる訳ではありません。
そもそも全て推論ですから、何も根拠はありませんし(爆)
ただ、何かしらそういう「当時の常識を覆す戦法」でも使わない限り
あんなにアッサリと家康の目の前まで斬り込むなんて、できないんじゃないかなぁ?
もっと穿った見方をすれば“真田日本一の兵”なんて激賞、徳川時代になってまで
平然と使える訳はない筈で、実は非常識ぶりを込めた皮肉だったりとか…。
それが今の世の中、皮肉が忘れられ(加えて幸村人気もあって)
単純に「額面通り」褒め称えただけの意味になってしまっただけなんじゃないかなぁ?

とりあえずここで言いたいのは、伝説染みた「真田幸村の活躍」ですが
手放しに礼賛するばかりでなく、もっと裏があるんじゃないかと
考える“努力”が必要なんじゃないかという話。
だって、ほぼ初陣に近いような武将が(信繁の戦歴って、上田と大坂しかないよね?)
そんな奇跡的な大勝利を幕府軍に対して簡単に成し得るなんて、ウソ臭くね?
歴史の研究って(資料批判然り)必ず裏読みがなくちゃダメなんだから…。

まぁ、いずれにせよ真田は凄いですよホントに。
天下人と呼ばれる人間を完膚なきまでに叩ける武将なんて、他に居ないよね?
信長は散々家臣の謀反に苦しんだけど(最期も光秀に殺られたけど)
「アイツには勝てん」なんて言った相手は居ないし、
秀吉とて「ヤツに天下を任せてみたい」と評した者は何人か居るけど
頭が上がらなかったのは…お寧さんと母ちゃんくらいか?(笑)
家康は耐えに耐えた前半生、信長に頭は上がらず信玄に大敗したものの
真田ほど、手痛い屈辱を味わった相手は居ないだろうねぇ。
個々の事例を疑ったり考察したりしたとしても、
やっぱり真田信繁、恐るべき名将である事は
間違いありません!        
つくづく、スゲーよなぁ…。




焔 硝 蔵 へ 戻 る


城 絵 図 へ 戻 る