★★★相州乱波の勝手放談 ★★★
#02 独断人物評:石田三成
 




石田三成 (C)KOEI いしだ じぶしょうゆう みつなり
石田治部少輔三成。近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市)の生まれ。
幼名は佐吉。巷説のようだが、寺の小坊主として修行していた少年期
鷹狩で疲れた秀吉に上手く3杯の茶を振舞った事で利発ぶりを買われ
家臣に取り立てられたという。豊臣政権下では吏僚として五奉行の職に。


唐突だが、拙者は関ヶ原合戦に関して東軍派である。

戦国武将は勝ってなんぼ、領地を獲得し家名を後の世に残してこそ本懐だと思っている。
「強き者が正義」とまでは言わないが、戦国の歴史に名が出るのは
やはり勝って勝ち残った結果があってこそだからだろう。
勝てない戦と知りつつも戦った者はいるだろうが、
わざと負けるつもりで戦った者は居ない。戦は勝つ為に行うものの筈だ。

例えば誰もが知っている武田信玄や上杉謙信。
もともと甲斐守護や越後守護代という、それなりの家格があった出自だが
甲斐は山に囲まれた僻地で外征を為す地の利が無く
越後も国人衆が独立割拠する志向が強い場所で、
両者の旗揚げは必ずしも順調なものとは言えなかった。
にも関わらず、信玄は甲斐を平定した上に信濃へ打って出たし
謙信も強烈なカリスマ性で越後を統一、関東や周辺諸地域に武名を轟かせる。
結果、両者は“戦国最強の好敵手”として後世に名を残し広大な版図を築いた。
今やこの2人を誰もが名将として称えるのは紛れも無い事実。
それでこそ戦国武将たるに相応しい人物だ。

領地を広げ家を繁栄させ、さらに民を慈しむ愛民の将ならばなおの事素晴らしい。
拙者が小田原後北条氏を信望するのは、地元贔屓だというだけの事ではなく
(もちろん、地元贔屓なのもありますがねw)
北条早雲から始まる後北条氏5代の治世は、根幹に住民重視の姿勢が貫かれているから。
五公五民、いや六公四民とまで重いものになっていた当時の年貢率を
後北条氏は四公六民に抑えた上、官僚制を整え支配制度に無駄やムラを無くした。
小田原城をはじめとする各地の城郭は必要に応じた堅固なものとし
戦に関しても、極力無駄な出血を避けていた。
よく、小田原後北条氏は輝かしい戦歴が無いと揶揄されるが
それでも確実に版図を広げているのだから、逆に無為な戦いをしなかったという証拠だ。
だからこそ、後北条5代は約100年に渡って関東の支配者たり得た。

※○公×民とは
収穫を10等分した際、○割を公、つまり領主に租税として差し出し
残り×割が民の手元に残る、という言葉で表した租税率の表現。
五公五民なら税率50%、六公四民は60%という意味になる。
そういう中、四公六民で財政を成り立たせた後北条氏は
他の大名に比べて圧倒的に低率な税で民の暮らしを保障した事になろう。
そりゃ、関東の民はこぞって後北条氏を支持する訳だよ…。

不幸にして1590年、豊臣秀吉に攻められ後北条氏は滅亡する。
この時、後北条氏を率いていた北条氏政は対豊臣氏戦略を見誤り
無駄な戦いを引き起こしてしまった。しかし氏政の嫡男にして
後北条氏5代目当主・氏直はむしろ秀吉との融和を探っていたと言う。
伊達政宗があと10年早く産まれていれば、奥羽は伊達家に統一され
日本の歴史は大きく変わっていたと言われるが(これについては#01話を参照の事)
むしろ氏直があと10年早く生まれ、名実共に後北条氏の君主になっていれば、
もしくは秀吉の全国統一事業がもう少し遅れていたならば
やはり日本の歴史は大きく変わっていたかもしれない。
あるいは、北条5代を生き抜いた最長老・北条幻庵(げんあん)がもう少し長生きし
対豊臣氏戦略に融和の可能性をもたらしていれば、とも思うが
さすがに100歳近くまで生きた御老体にもっと長生きしろというのは酷な話か。
とりあえず、徳川家康を通じて上方との外交に当たっていた北条氏規(うじのり)が
小領ながら後北条の家を存続させ、家康との縁から
江戸時代に譜代格となった事がせめてもの幸いであろうか。

※北条幻庵とは
小田原後北条氏初代・早雲の末子。本名は長綱(ながつな)。
97歳と言う高齢まで生き、早雲から氏直まで
後北条氏5代の全てを見届けた人物。後北条一族の重鎮として
家中に睨みを利かせた一方、和漢全ての学問に通じる教養人であり
しかも自ら鞍造りまでする多様な才覚に溢れていた、まさに仙人。
惜しくも小田原征伐の前年、1589年に亡くなったのだが
その知略があれば、後北条氏の処世術も変わっていたかも…?



おっと、話がどんどんずれていく。
とにかく、後々に家を残す武将が拙者にとって名将の基準。
毛利元就然り、津軽為信然り、伊達政宗然りだ。
その最たるものが、天下を統一した徳川家康。東軍の総帥だ。
天下の形勢を固めた関ヶ原の戦いに色々な手を打って勝利を掴み
およそ150年に及んだ戦国の世に終止符を打った名将中の名将。
人質と言う不遇の少年期を耐え、三河国主となった後も
信玄・信長・秀吉という近隣強豪の動向に振り回されつつ
還暦を迎える頃、最後のチャンスを的確に掴み天下を手にし、その後
250年に渡る徳川氏の時代を築いた人生は、最大の勝利者と呼ぶに相応しい。
西軍贔屓の人に言わせると、家康は関ヶ原前に全国の大名へ降誘の書状を乱発し
豊臣恩顧の諸大名を取り込んでようやく勝った姿が見苦しいと評されるが
そんなのは三成も同じ事をやっていた訳であって、どっちもどっち。
「三成はそんな事やってない」なんて言う事は有り得ないよ?
徳川体制が確定した後まで三成の約束手形なんか残す大名なんて
居る訳ないんだから、単に三成の書状が残っていないだけの話さね。
むしろ西軍は大津城攻略に四苦八苦し、細川幽斎には兵を無駄使いさせられており
開戦以前から適正さに欠けた戦略だったと言わざるを得ない。
関ヶ原で勝ったとしても、多分天下は収まらなかっただろうよ。

※大津城攻略と細川幽斎
琵琶湖の畔、大津城は関ヶ原開戦の数日前になって突如西軍から東軍へと寝返り
(無論、これは家康が狙った作戦)東国と大坂の通行を妨げる存在になった。
慌てて西軍は落城せんと躍起に攻撃したが、おかげで主力軍になりそうな部隊が
関ヶ原本戦に向かえない大失態を演じる事になった。
細川幽斎も、東軍として丹後国田辺城(京都府舞鶴市)で籠城を決め込んだ為
同様に西軍は軍勢を割かれ、関ヶ原参加軍勢を大きく減じさせてしまった。

幕府を開いた後も、大坂の秀頼をいびり続けた挙句、討ち滅ぼしたというのも
家康嫌いの人々から格好の攻撃対象にされているけど
そんなのも、天下の形勢を固めるならば当然の事でしょう?
大坂城という固い殻に閉じ籠り、淀殿という塩っ辛い味付けがされた種は
まともに食えやしないし、天下の安泰が目前となった大地に蒔くべきでもない。
こんなのが種蒔きされる前に消してしまうのは、農園主にとって至極当たり前だ。
むしろ百戦錬磨の家康がそれだけ秀頼を危険視していたというだけで
豊臣贔屓の面々は十分喜ぶべきなのではないかと。
最後の一手まで手を抜かないからこそ、天下が治まった。
家康の戦略眼は老いてなお鈍っていなかった証拠だよ。
それこそ秀吉は、天下統一後に利休や秀次を無駄死にさせた上
朝鮮出兵なんていう破壊活動までやらかしてるんだから…。
だからオイラは、家康との行き掛かり上のみならず
晩年の大愚策を連発した事から、秀吉という人は好きになれない。
農民の苦労を知るはずの藤吉郎は、いつから独裁者の関白に変貌したのだろう。

その家康に追従した東軍諸将も、勝ち馬に乗ったとか、
打算でとかいう面はあるけど、基本的には“大局を見通した”という点で立派なもの。
何度も言ったとおり、勝ってこそ戦国武将。家を残してこそ名将だから。
黒田・細川・藤堂なんて面子は、何度も主君を替えた家柄とはいえ
結局は“家を残す”事を目標にしてたわけだから、東軍に付いて大正解だよね。
時勢を良く見極めるのも、戦国武将として必要な素養だよ。
奥方の指示に従って勝てた山内一豊は…ちょっと能力に疑問を持つけど??

おっと、まだ三成の話が出てこない(苦笑)

じゃ、西軍の諸将はどうなのかと言えば、別に嫌いと言うわけじゃない。
オイラも日本人の端くれなので、義や道理に基づいた武将は評価している。
最近の若者は、自己中で他人の迷惑も顧みず…いや、そうじゃなくて (^ ^;
例えば忠臣の鑑と言われる楠木正成公。倒幕の旗揚げから敗死するまで
一貫して南朝皇室に尽くした姿勢は、まさに忠臣。むしろ、体面に拘って
その忠臣をあっけなく死に追いやった後醍醐天皇のほうが嫌いなほどだ。
忠犬権六も、ひたすら織田家のために尽くした姿に好感を抱くね。
しかも賤ヶ岳で利家の裏切りを黙認した度量、男気。並みの器ではなかろう。
秀吉に敗れたとは言え優秀な武将だったし、生き様には清々しさがある。
猿は結局織田家を踏み台にして出世しただけだし! (▼▼メ

※忠犬権六とは
織田家筆頭家老、柴田権六勝家の事。律儀すぎる忠勤ぶりからこう渾名された。
信長から命じられた事は死力を尽くして果たし、本能寺の変後も
自らの出世欲ではなく、織田家の安泰を第一に図っている。
その為、天下を手にせんとする野心に燃える秀吉と賤ヶ岳で戦う事になったが
この時、配下として一軍を率いていた前田利家が裏切ってしまったにも拘らず
秀吉と利家の友情を知っていた彼は、これを黙認して何ら恨み言を吐かなかった。

関ヶ原で西軍に与した武将は、だいたいが利潤よりも
義や道理を重んじた人間だと言われている。
会津で家康を引きつけた上杉景勝や直江兼続、
岐阜の御曹司・織田秀信(う〜ん、彼は単なるお人好しと言うべきか?w)
秀吉猶子として豊臣家の行く末を案じた宇喜多秀家。
いずれも、筋を通して西軍に参加したことは当然至極だろう。
(まぁ、個人的には「本当に全部が全部そうだったのか?」と疑っている所だが)
最悪なのは土壇場で裏切った連中。これは東軍へ移ったといってもチト毛色が違う。
担ぎ上げられた毛利輝元は…少々思慮が足りなかったかなぁ。落第点。
成り行きで西軍になっ(ちゃっ)た長宗我部盛親も、これはおバカさんだね。
その後の対応も大失敗で結局家を潰してるし。家を潰すのは全くダメ。
せめて鍋島直茂みたいに上手く立ち回れば良かったのに。

※成り行きで西軍
土佐の大名・長宗我部盛親は、当初東軍に味方するつもりだったらしい。
ところが、派遣した密使が西軍の構えた関所を突破できなかったため
家康と通じる事ができず、そのまま西軍に編入されてしまったとの事。
長宗我部贔屓の人は「密使が役を果たせなかったのだから、盛親に罪はない…」
なんてのたまいますが、密使を2重3重に派遣するでもなく、
事前に西軍の防衛線を調査していた訳でもなく、結局のところ
全然本気で策を講じようとしていなかっただけだから、盛親の短慮は明白!

※鍋島直茂
肥前国佐賀藩の祖。鍋島家は当初、西軍に与していたが
東軍勝利を予見し、家康に通じる策も用意していた。
いざ関ヶ原が開戦、狙い通りに東軍が勝つや
直茂は九州にて西軍派の諸城を次々攻略、徳川家との戦後交渉で
何らお咎めなし、という結果を引き出している。家康と関われなかった
盛親とは正反対の行動で見事に大乱を乗り切っている。

オイラが嫌いな武将というのは、不義理な上に家を潰したようなヤツ。
名軍師・太田道灌を持て余して無駄死にさせた上、後北条氏を侮って
河越夜戦で滅亡した扇谷(おうぎがやつ)上杉氏なんざ、当然の成り行きだね。
畿内の政界を荒らしに荒らしまくり、主君や将軍を暗殺し南都も焼き払った挙句
最期にゃ山の中の城に追い詰められて自爆した松永久秀なんかも、
(“豪快で男らしい”って評価する人もいるけど)拙者は大っっっ嫌い。
上に書いた長宗我部盛親も、どっちかというとその部類かなぁ。
愚鈍な家臣に振り回されてるような人間じゃ、所詮君主の器じゃないって事だね。
久武親直なんか、とっとと追放していりゃ良かったのに。

※久武親直
長宗我部家臣。兄・親信が戦死した後、久武家の家督を継ぐ。
信義の人であった兄とは異なり、欺瞞と野心でのし上がった人物。
関ヶ原合戦後、盛親の実兄・津野親忠がひそかに家康へ謝罪し
長宗我部家の存続を水面下で工作していたが、親直はこれを
「親忠が御家乗っ取りを謀っている」と盛親に讒言。
真に受けた盛親は(←こいつもどこまでバカなんだ)親忠を抹殺してしまった。
交渉役が突如処刑された事に激怒した家康は、盛親を
「兄殺しの大罪人」として改易、長宗我部家は封を亡くした。
斯くして盛親は大名から素浪人へと身を落としたが、騒ぎの張本人である
久武親直はさっさと他家へ仕官してしまったという、とんでもない不忠者。
亡兄・親信は生前「弟にだけは家督を継がせるな」と言い遺していた。
盛親も親直も「兄の心、弟知らず」…何とまぁ、因果な話である。

さてようやく石田三成の話。
今までの基準に照らすと、三成って人はかな〜り難しい人物。
敗れて家を亡くしてるんだよね、ものの見事に。でも、忠義の行動でもあるし。
いや、能吏すぎる分、他人への配慮が足りないのはやはり器が小さいと見るべきか。
いやいや、島左近の登用なんかを見れば、気前が良い所もあるし。
プラスで評価できる部分とマイナスで見る部分が両方ある人間なのさね。
ここまで極端な人も珍しい。

※島左近の登用
これは結構有名な話なんで、脚注入れるまでもないかな?
武功の家臣を必要としていた三成は、当時浪々の身であった左近を
何としても招聘したいと思い、その折まだ4万石だった所領のうち2万石
つまり半分を左近に与える、として仕官を願ったという話。
残る三成の領地は2万石、左近の領地も2万石、要するに三成は
主君である筈の自分と同じだけの石高を家臣に与えた事になる。

冷静に検証してみると、やっぱり戦は下手な人だったのかなぁ。
忍城の水攻めに失敗して、それが元で
「実戦に向かない小役人」ってレッテル貼られてるよね。
最近新史料が出てきたとかで、忍の水攻めは三成の独断ではなく
秀吉の命令だったという説が有力になってきたけど、
それにしたって結局ミスったのは三成なわけに変わりはないし。
関ヶ原にしても、夜襲や先制攻撃の進言を退けてるし。
島左近や大谷吉継がどんなに上手い戦略を練ったとしても、
それを活かせないんじゃ、大将としては…失格?

だいたい、豊臣恩顧の武闘派に総スカン食った事自体、
三成の性格に難があったって事だよね。三成ファンの人は身贔屓に
「西軍を組織しただけで十分すぎるほど人望があった」なんて言うけど
いざ開戦してみたら裏切るヤツは続出だし、
それ以前に云う事聞かないヤツが居たり、そもそも東軍に与した連中の半分は
「家康に従う」というより「三成と戦う」ための面々だった訳だし
全然統率取れてない、つまりやっぱり人望がない、って事だろ?
諸々ある史料にどこまで信憑性があるかは疑問符だけど
(やっぱり徳川体制下で多少なりとも改竄されてるだろうからね)
少なくともそういう面があったって事は事実だろうから。
本当に天下を丸く治めるつもりなら、重箱の隅をつつくようなやり方じゃなく
清濁併せ呑むくらいの度量がなきゃ(家康はそうだよね)
毛利輝元を形の上で総大将に据えるなんて、かなり苦肉の策だしなぁ。
大坂で人質獲ろうってのも安っぽい。挙句、細川ガラシャは死んじゃったし。
そんなことしてたら、さすがの淀殿だって「豊臣家のお墨付き」は出せないだろうよ。
秀吉の没した直後から、三成は家康と対立しはじめているけど
いったいどういう戦略をたてて家康を打倒しようと考えていたんだろう?
100%勝てる保障のある計画なんて、あの性格じゃ為し得ないと思うんだが。

※細川ガラシャ
これも結構有名な話なんですが、いちおう脚注。
西軍優位を図ろうとした三成は、大坂に在住を義務付けられていた
諸大名の妻子を、人質にとって大坂城内へ幽閉しようと謀る。
ところが東軍諸将の妻子はこれに反発し、逃亡する者が続出。
しかも細川忠興の妻・ガラシャは“謀反人・明智光秀の娘”という経歴から
逃げる事を潔しとせず、かと言ってみすみす人質に獲られ
夫の足を引っ張るのも受け容れ難く、進退窮まり死を選ぶ。
結局、三成の人質作戦は失敗どころか
ガラシャの死で東軍諸将の恨みを買うだけの結果になった。

ところがそれに反するように、大谷吉継や島左近という大戦略家が
こぞって三成に尽くしている。まぁ、彼らと三成の交誼は有名だし
そういう経歴があれば当然の成り行きなのは理解できるんだけど
でもさぁ、それだけ信望してくれる友人や部下がいるのなら
何で他の武将には徹底的に嫌われたんだろね?
武闘派には冷徹な処理をしてるのに、常陸の佐竹とかには飴を与えてるし。
必ずしも彼は杓子定規なだけじゃないんだよね。
このへんが三成と言う人の不可解な処。
もう少し、徳川時代になっても三成に関する史料が残されていれば
実際の姿が見えてくるのかもしれませんがねぇ。

※佐竹に飴
常陸国の大名・佐竹家の所領は太閤検地により公称55万石とされたが
実高では80万石を越えていたとされている。同じ関東に封じられた家康を
牽制するため、戦力に余裕を持たせた秀吉の配慮という説があるが真偽は不明。
いずれにせよ「検地の計算に絶対の厳格性」を求める実務官僚・三成が
こうした“数字のカラクリ”を見過ごしたのには、重大な理由がありそうだ。

確かに三成は豊臣家大事で、家康の“政権簒奪(ま、こんなのは見方次第だけど)”に対し
真っ向からぶつかっていったという点では筋が通ってるし、義理堅いと思うね。
正論が正論として通るなら、初っ端から家康の負けだし
福島や加藤といった三成嫌いの連中だって逆らえんわな。
でも、時代はそれを認めなかった。
吉継や左近でさえ、この戦は負け戦だと思ってた。
それでも三成は西軍を組織して家康と戦ったんだよな。
計算高いはずの三成が、いったいどういう計算で勝算を立てたんだろか?
負けるはずはないと本気で思ってたんだろか?
いや、当人はきっと本気だったんだろうな。
結局、後世の我々は結果を知ってるからこういう事が言えるんであって
その当時の連中は、先の事などわからない状態で動いていたんだから。
三成は勝つつもりで行動してた。ただひたすら、豊臣家のために。
誠にもって愚直としか言い様がないが、そこまで一本気なのは称賛すべきでしょうな。
それこそ楠木正成のような、負けても筋を通すという姿勢に
通じるものがあるような無いような?とりあえず、三成を抹殺しようとした
徳川時代にあっても、この事だけは普遍的に語り継がれていたわけだし
こればかりは変えようのない真実だったんでしょうな。
徳川一門の水戸光圀でさえ、三成を評価してるほどだし(笑)

今更ながら言っておきますが、わたしゃ決して石田三成が嫌いではないですよ。念のため。
官吏としては非常に有能だったという点も認めてますし。
惜しむべきは、彼に配慮と融通という才覚がなかった事です。

何ていうか、実戦を渡り歩かないといけない戦国時代に生まれたのが
(それも相手は家康だし)不幸だった人なのかもしれませんね。
例えば江戸時代後期(幕末の前くらいね)、財政破綻寸前の藩の家老とかだったなら
キレモノぶりを発揮して、一気に赤字を減らす活躍をしたりできたのかも。
ちょっと融通利かない所が逆に良く作用して、強引に借金帳消しにして
その後の幕末動乱を乗り切る原動力になりました、なんて。
敗軍の将ではなく、調所広郷(ずしょひろさと)・村田清風(せいふう)
それに石田三成…なんて感じで
幕末雄藩を育てた名宰相っていう評価になったんじゃないかなぁ。

※調所広郷・村田清風
調所は幕末薩摩藩の宰相。半ば強引な手法で商人からの
薩摩藩借金を帳消し(事実上の踏み倒し)にした。
村田は同時期の長州藩家老。画期的な商業政策に藩が関わるようにし
長州藩の財政を赤字から黒字へと転換させた人物。両者の活躍により
薩摩と長州は幕末雄藩へと成長、倒幕を成功させる原動力になった。

400余年前、そんな三成は大軍勢を率いて徳川家康に挑み、敗北しました。
陰暦にして慶長5年10月1日、敗軍の責を負って斬首。
現在の太陽暦に当てはめると、西暦1600年11月6日の事です。




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