★★★相州乱波の勝手放談 ★★★
#01 政宗があと10年早く産まれていたら?
 




伊達政宗 (C)KOEI  だて とうじろう まさむね
伊達藤次郎政宗。奥州伊達氏17代当主にして江戸幕藩体制における仙台藩祖。
東北の政令指定都市、仙台市を生み出した人物だ。幼い頃に疱瘡(天然痘)で
片目を失い、父を不慮の事件で亡くし、母からは疎まれた逆境を跳ね除けての
業績である。飽くなき野望に燃え、麻の如く乱れた奥羽を統べるべく戦を重ね
その視線は遥か水平線の彼方、南蛮まで至っていた稀有壮大な名将。


伊達政宗―――戦国末期〜江戸時代初期にかけての大名。
歴史の教科書で取り上げられるほど日本史に重大な変化をもたらした訳ではないが
今やほぼ全ての日本人が名を知っている有名な戦国武将であり、人気も高い。
無論、常々“東軍派”を公言している拙者としても
政宗は少なからず好きな人物である。渡辺謙さん演じる政宗、格好良かったなぁ…♪
漆黒の胴具足に三日月の前盾、精悍なイメージがあるし
何より仙台62万石、近世大名伊達家の祖は評価するに余りある功績を残している。
況や、昨今の歴史ブーム…特に“歴女”さんからの熱狂ぶりは言を待たないであろう。

が、どうにも歴女さんの加熱暴走は行き過ぎたものがあるようで、
勝手な猛進&妄信でありもしない偶像崇拝を作り上げていらっしゃる。
ゲームや小説の中での創作が、あたかも本当であるかのように…。
政宗が「れっつぱー○ぃ」なんて英語喋るだの、妙なダンスを踊るだの、
そんなの完全に有り得ないやろ!ってものまで、
あの人たちは本気で信じていそうだから怖い。
「政宗が異国と外交交渉してたから」なんて言うのなら、相手はイスパニアなんだから
せめて英語じゃなくてスペイン語とかだろ?いや、それだって話せる訳ゃないわな。

まぁ、歴女さんの妄言はどーでもいいとしても
良く言われるのが「政宗があと10年早く産まれていれば、天下を手にした」という話。
果断な決意と天性の行動力で、家督相続以来瞬く間に南奥州を席巻した政宗だが
既に西国では豊臣秀吉が天下の大勢を手にし、その後は徳川の天下になった為
彼の登場は遅すぎた、あと10年早ければ…という論ですな。



んじゃ、試しにシミュレートしてみよう!

まずは実際の史実から。
1584年10月の家督相続後、周辺諸豪族への侵略を開始した政宗は
主に米沢(当時の伊達家本拠)より南側をターゲットにしている。
大内定綱領を蹂躙し、二本松義継を討ち倒し、会津の名門・芦名家の内紛に衝け込み
遂に1589年6月、芦名義広を撃破した。これに伴って、それまで芦名家に従属していた
二階堂・石川・白河といった諸氏も政宗に服属、伊達家の所領はわずか5年で
70万石から190万石に激増した、というのが流れである。

例えてみるとこんな感じ…?(笑)
南奥州ドミノ倒し大会 in 1580's(笑)

ではこれを10年前の状況に置き換えてみる。

大内定綱は1584年よりも足場が不安定な状況、二本松家は義継の父・義国の代で
“室町幕府管領家”畠山氏(二本松氏の本姓は畠山氏である)の権威を盾に
ジリ貧になりながらも伊達家に抗っていた。実際、1574年に二本松義国は
伊達家から攻められ、義継への家督譲渡(義国の隠居)を条件に
和議を結んでいたのであるから、この両家への攻撃はほぼ史実通りと言える。
ただ、問題は芦名氏である。
1570年代前半の芦名家当主は盛興(もりおき)、剛勇で知られた武将だ。
そしてその父・盛氏(もりうじ)も健在な頃。芦名家16代・盛氏は
会津芦名家の最盛期を築いた名将中の名将。血気盛んな政宗が挑んだとて
盛氏の前ではまさに“赤子の手をひねる”ようにあしらわれるだけだろう。
それどころか、1570年代の伊達家はそれまで続いていた天文(てんぶん)の大乱で
勢力を疲弊させていた頃。円熟の極みにあった芦名家へ闇雲に攻めかかっても
防がれるどころか逆に攻め滅ぼされる危険性すらある。
つまり、南への侵攻路は完全に塞がれていたのだ。
実はこのドミノ、10年前だと倒せないのだ

※天文の大乱とは
政宗の曽祖父、伊達家14代当主・稙宗(たねむね)が
嫡子・晴宗(はるむね、政宗の祖父)と対立した為
稙宗は政略結婚で血縁関係を結んでいた周辺諸大名に晴宗を攻めさせ
晴宗は伊達家臣団を統率してこれを撃退した天文年間の争乱。
最終的に晴宗が伊達家15代を相続、稙宗が隠居する事で収束したが
この結果、伊達家中の結束は強く固められた反面
対外的な影響力は大きく失われ、伊達家は周囲の大名を悉く敵に回した。
元号の読み方は「てんぶん」が正しく、「てんもん」ではないので
間違っても星の見間違えで天文学会が喧嘩したとかいう話ではない。



それでは逆に、北へ手を出してみたらどうなるか?

米沢を本拠とする伊達家から見て、北に位置するのは山形の最上(もがみ)家。
政宗が最上家を攻めるとなると、まず最初に問題となるのが義(よし)姫の存在だ。
義姫、政宗の生母。その出自は最上家であり、当時の当主・最上義光(よしあき)の
妹であった。生来、最上家の為に生きる事を旨としていた彼女は
伊達家に嫁いだ後も、事あるごとに実家の窮地を救うため動き続けている。
史実では、政宗が秀吉の小田原攻めに参陣する事で伊達家の基礎固めを行い
最上家への脅威となる可能性が生じた際、我が子でありながら
政宗を毒殺しようとしたとされている(近年、これは再検証の要ありとされるが)。

「可能性」だけで息子を殺そうとする程の気性なのだから
実際に「開戦」するとなった場合、義姫は…。
まぁ間違いなく、伊達家を棄てて最上家に就くだろうねぇ。
となると、政宗は母を殺さねばならず、伯父も殺さねばならなくなる!
毒殺されかかっても母を許した思慕の念…というのが
歴女さん達の琴線に触れ、人気が激増している政宗ですが
これだと評価は一変、鬼畜の如き尊属殺人犯の汚名を着る事に(爆)
そんな政宗、皆さんは好きになれますか? (^ ^;
血塗られた最上家を相手にするのは、得策とは言えず…
感情論は置いておくとしても、現実的に攻めたらどうなるか?
伊達家と最上家の融和で産まれた筈の存在でありながら
母の実家、伯父を攻める政宗に道義はなく、天文の大乱と同じく
周囲の諸大名は反発して再び伊達家は総スカンを食らう事になるだろう。
ましてや相手となる義光は名うての謀略家である。
この当時、義光は父から家督を継いで間もない頃だが
実は父の義守(よしもり)と係争して強制的に隠居させたのだった。
この話には余談もあり、義光を嫌った義守は
次子の義時(よしとき)に家督を譲ろうと考えていた為
義光は邪魔者になる弟までも徹底的に吊るし上げ、抹殺したというもの。
近年の再検証で、義時の存在そのものが疑わしくなってきたが
こうした逸話が信じられてきた事自体、義光の辣腕ぶりを示していよう。
しかも(江戸時代になる頃の事だが)義光は嫡男・義康(よしやす)と不和になり
廃嫡の上、後顧の憂いを絶つように暗殺している。
義光という人物、自分に敵対する者は(特に身内に厳しく)
片っ端から殺しまくる鬼謀の将であった。

こんな伯父と敵対したら、まず間違いなく政宗は殺られます…。
実際この当時、政宗の父・輝宗が義父にあたる義守の救援を名目に
義光と干戈を交えたものの、最上軍を倒せなかったしねぇ。
と言うか、本気で義光と戦う気はなかったような?(怒らせたくないからだ)

念のためフォローしておきますが、私個人としては
最上義光も素晴らしい武将と評しております。
大河ドラマ「独眼竜政宗」の放映時、仙台の町は沸きあがった反面
あまりに義光を悪役に描いた為、山形では不評を買ったと言われてますが
いやいや、義光のダークヒーローぶりこそ真の戦国武将たる証左!
誰とは言いませんが、領地ばかり持ってても公家かぶれで滅んだ生ぬるいバカ大名や
油断して一夜で業火に消えた天下人(になり損ねたウツケ者)なんかより
遥かに出来人だったと断言できましょう。
“出羽の梟雄”は家中に反乱者を許さず、また周囲の中小豪族を震え上がらせ
最上家を押しも押されもせぬ大大名に成長させた英雄だと誇るべきかと!!




南もダメ、北もダメ、残る敵は東側の大崎・葛西と言った面々ですが
これも(形ばかりとは言え)権威ある名家なので、おいそれとは手が出せない。
1570年代の奥羽は、まだ権威や格式が幅を利かせる情勢にあり
室町幕府が崩壊した後でさえ、こうした家に刃向かう事は
“逆賊”の扱いを受ける危険性があった。
それに、大崎や葛西を攻めた先には屈強な南部騎馬兵を擁する南部氏が!
「三日月の 丸くなるまで 南部領」と謳われた南部晴政を敵に回せば
芦名盛氏と同様の結果になるのは火を見るよりも明らかだ。
そもそも北東北の奥地へ進出したとて、ますます天下から遠ざかるだけだし(爆)
最後に残る敵は、浜通りの相馬氏だけど
これは史実でも政宗が何度戦っても勝てなかった相手。
10年遡ったとて、状況は変わらないだろう。
歴代伊達家当主は、みな相馬氏に煮え湯を飲まされてきたのだから…。



という事で、政宗がたとえ10年早く産まれたとしても
状況が悪くなる事ばかりで、良くなる可能性は殆どなし!
天下への覇業を進めるどころか、恐らく逆に攻め滅ぼされるだけで
“名将”の評価から一転、身の程を知らぬ“凡将”と蔑まれる事になろう。
って事は当然、歴女さん達からの人気もなくなる訳でまるっきり本末転倒な結果。
やはり政宗は1580年代だからこそ活躍できた、って事だろうけど
それはそれで、どう逆さに転んでも秀吉には追いつけない。
結局、政宗は史実以上にはならない存在だったんだろうねぇ。

冒頭に申し上げた通り、拙者は伊達政宗という武将を高く評価している。
無下に貶めるつもりは毛頭ない。が、無理な誇大妄想を抱くつもりもないので
敢えてこの文章をしたためさせて頂いた。歴史にロマンを感じるからと言って
過度な(それも自己満足的な)欲望を一武将に押し付けてはいけないのである。
そもそも伊達家が1570年代から
周りの切り崩しができる程の戦力を持っていたのならば…
御父 伊達輝宗公 「政宗を待たずとも、
 儂がさっさとやっておるわ!」


―――御尤もでございます… m(_ _)m




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