阿波国 秋月城

秋月城址石碑

所在地:徳島県阿波市秋月
(旧 徳島県板野郡土成町秋月)

■■駐車場:  なし■■
■■御手洗:  なし■■

遺構保存度:☆■■■■
公園整備度:☆■■■■



室町時代に阿波国(現在の徳島県)を治めた細川氏による守護所があった城でござる。
阿波国は鎌倉幕府の名族・小笠原氏(後の三好氏)や土豪の大西氏らが割拠する地であったが
鎌倉幕府が倒れ、建武新政となると新たな阿波守護として細川頼春が任命された。
初代将軍である足利尊氏の7代前、足利義康から枝分かれした血統が細川氏である。
この一族は鎌倉時代に三河国細川郷(現在の愛知県岡崎市)へ移住したため
その郷名を採り細川の姓を名乗るようになった。要するに細川氏は足利氏の縁戚であり、
代々幕府管領(将軍を補佐して政務を統括する最重要職)を輩出する最高家格
「三管領」の一つであった(残りは斯波家・畠山家)。細川和氏・頼春父子の阿波入国に際し
三好氏・大西氏ら阿波の国人衆は反抗の構えを見せたが、秋月郷の土豪・秋月氏はいち早く恭順。
秋月氏は古来よりこの郷を領した一族で、文永年間(1264年〜1275年)には当時の守護である
小笠原氏から世継ぎを迎えたと言われている。秋月氏の招聘により細川氏は阿波守護所を
秋月に定め1336年(建武3年・延元元年)に築城、阿波全土を掌握していったのでござった。
在地の有力者であった三好氏・大西氏らも次第に平定されいずれも細川家の被官となり申した。
阿波国・讃岐国(現在の香川県)といった四国東部は、畿内とは目と鼻の先にあり
豊かな農業生産や瀬戸内・熊野水道の海上交易利潤を支えとし、さらに強大な軍事力を有して
京都の中央政権には欠かせない重要な地とされてきた。この要地を領土とした細川氏は
足利幕府運営において常に中心を占める絶大な権勢を誇ったのでござる。
頼春の子・頼之(よりゆき)は1362年(正平17年・貞治元年)同族の細川清氏を粛清し四国を掌握。
細川氏の阿波支配が固まった頃、頼之は3代将軍・足利義満(よしみつ)の後見役となる。
義満は2代将軍である父・義詮(よしあきら)を早くに亡くし、頼之を傅役として成長した。
義満にとって頼之は実の父以上に頼れる人物であったのだ。こうした経緯を経て頼之は
1367年(正平22年・貞治6年)管領に就任、義満政権の中枢を担い辣腕を振るう事になった。
ちょうどこの時期は室町幕府体制が確立する年代であり、南北朝争乱も終息しつつあった。
管領・頼之は北朝方(室町幕府側)の守護大名を巧みに統制して義満の支配力を強化、
同時に南朝方を牽制して次第に追い詰めていったのでござった。
しかしその強硬で独裁的な政策は諸人の反感も買い、1379年(天授5年・康暦元年)4月
頼之の管領辞任を求める軍勢が将軍御所を包囲する。幕政の混乱と内戦を避けるため
頼之は職を辞して領国阿波へ引退、新管領に反細川派の斯波義将(しばよしまさ)が就任した。
この事件を「康暦(こうりゃく)の政変」と呼ぶが、義満は政変後も頼之の政策を継承し
幕府にとって目障りな有力大名の粛清を画策する。まず義満は諸国の状況を把握するため
積極的に各地を視察、力を付け過ぎて幕府にとって危険な大名を見定めた。
1389年(元中6年・康応元年)3月に義満は頼之の待つ四国へ渡り今後の方策を談義する。
これを受け1390年(元中7年・明徳元年)美濃国(現在の岐阜県南部)の有力大名であった
土岐康行が義満の軍勢に討伐された。翌1391年(元中8年・明徳2年)4月に頼之は京へ戻り
再び幕政を司る。養子である頼元を管領に据え、義満・頼元の後見となったのである。
このため義将は管領を辞め領国へと退去してしまった。
こうなれば義満の政策を妨げる者はなく、次々と強権を発動していったのでござる。
同年12月、日本66ヶ国のうち11ヶ国もの守護職を占め「六分の一衆」と呼ばれた山名一族が
義満に討たれる。これを「明徳の乱」といい、山名家当主の氏清は死亡、山名氏の領国は
但馬国(現在の兵庫県北部)・因幡国・伯耆国(現在の鳥取県)のわずか3国に減らされた。
頼之は南北朝の合一が成った1392年(元中9年・明徳3年)に亡くなるが、義満は猶も
武断政策を継続。1399年(応永6年)南北朝合一の立役者とも言える大内義弘を
和泉国(現在の大阪府南西部)堺で敗死させた「応永の乱」を起こし、
続いて1400年(応永7年)駿河国・遠江国(共に現在の静岡県)守護であった
今川了俊(いまがわりょうしゅん)を攻め隠退させ申した。
土岐氏は室町幕府成立の功労者、山名氏・今川氏は足利氏に繋がる名族、
大内氏は北朝方主力として南朝方制圧と和睦斡旋に多大な貢献をした実力者であるが
義満はそれにとらわれず「幕府をも脅かす危険な存在」として潰していったのである。
こうして足利将軍家による中央政権体制を磐石なものとした義満は
将軍と太政大臣の両位を獲得、明(当時の中国正統王朝)皇帝より「日本国王」の称号を得て
室町幕府の最盛期を現出したのでござった。
さて細川家だが、頼之以後は管領職を襲職する宗家と阿波守護となる分家に分かれ
宗家は頼元の後嗣が相続、阿波守護家は頼之の弟である頼家が当主となり秋月に定着した。
頼家は甥である義之(頼之・頼家の弟・詮春の子)に家督を譲り、その子孫である
満久、持常、成之、政之、義春、之持、持隆(持高とも)、真之と続いた。
また、宗家に嫡子が絶えた場合には阿波家から養子を取り継嗣としたのでござった。
阿波守護家は秋月に城下町を築き、大規模な寺院を創建するなど富国に務めたが
室町時代中期に井隅荘勝端(現在の板野郡藍住町勝瑞)へ守護所を移転した。
細川氏の去った秋月城は旧主・秋月氏が守る事となったが、戦国時代に入り細川家は没落。
三好氏の統治時代を経て1579年(天正7年)土佐国(現在の高知県)から勢力を拡大した
長宗我部(ちょうそかべ)氏の侵攻軍が秋月城を攻め落とし廃城となったのでござった。
現在、城跡は自然の原野に戻り、わずかに城跡の石碑が建つのみで訪れる人もない。




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