皇朝十二銭


7世紀後半、古代天皇制の完成期にあたる時代において
天皇集権の国家体制の樹立、公地公民制の確立、律令制の施行など
朝廷の政策には重要な案件が多かった。
また、国際的には中国の隋王朝が618年に滅亡し
新たに成立した唐王朝は663年、白村江の戦いで日本と交戦に及び
朝鮮半島を制圧した新羅と共に大和朝廷と敵対関係にあった。
その後、遣唐使の派遣により唐との外交関係は修復の兆しを見せたものの
日本は唐・新羅を中心とするアジア朝貢国とは異なる立場に立たされ
国内的にも、対外的にも独自の国家体制を完成せねばならなかったのだ。
こうした状況において、財務的にも新たな経済政策が必要となり
これに基づいて、日本独自の銅貨が発行された。
以下に列挙する皇朝十二銭である。


奈良時代
1 和同開珎
読み方 わどうかいほう(わどうかいちん)
鋳造年 708年(和銅元年)
当時の天皇 元明天皇
「続日本記(しょくにほんき)《の記載によると、元明天皇の時代における
708年(慶雲5年)1月11日、武蔵国秩父郡から天然熟成の銅塊である
和銅(にぎどう)が産出され、天皇に献上されたとある。天皇はこれを大いに喜び、
直ちに和銅(わどう)と改元し、同年5月に銀鋳を行い
7月(8月という記載もある)には銅鋳が行われたとされている。
これが和同開珎の鋳造で、記録に残る日本最古の貨幣である。
この鋳造は天皇の勅命で行われたため、和同開珎は同時に
日本最古の公鋳銭でもあった。
5月に銀鋳とあるので、和同開珎は銅貨だけでなく銀貨もあった事になるが
銀銭のほうは翌709年に廃止されている。
和同開珎は当時の唐で使用されていた開元通宝(かいげんつうほう)を手本にして
製作されたのではないかと考えられており、鋳造面の字画・配列・輪郭などが
酷似している。この開元通宝(開通元宝とも呼ばれる)は、
621年(唐の高祖武徳4年)に発行された通貨で、和同開珎よりも80年以上も
鋳造時期が遡る。この80年の間に、唐と日本の間には幾度かの遣唐使が交換され
開元通宝の鋳造技術や使用方法が大和朝廷にもたらされていた可能性が高い。
また、遣唐使だけでなく唐からの帰化人も数多く日本国内に移住していた事から
開元通宝そのものが日本に持ち込まれ、使用されていたとも想像される。
いずれにせよ、大陸で成立した貨幣制度が日本にもたらされ
その知識を元にしつつ、日本独自の銅貨として製作されたのが和同開珎である。
天皇、そして朝廷はこの新貨を流通させ、日本国内でも貨幣制度を基にする
経済活動を普及させて独立国家体制の確立を狙ったものだが、当時はまだ
銅貨の価値を理解できる者は数少なく、特に一般庶民には利用されなかった。
貨幣制度を軌道に乗せたい朝廷は、711年に蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)を定め
貨幣を貯め、流通に貢献した者に官位を与える事にしたが
これも大した効果は得られず、貨幣の価値が認められ、
物流決済手段として用いられるにはなお長い時間が必要であった。
和同開珎の直径は約2.4cm、重さは3g程度。銅83%、鉛2%の比率で鋳造され
現在までに約4300枚ほど発掘された。
2 万年通宝
読み方 まんねんつうほう
鋳造年 760年(天平宝字4年)
当時の天皇 淳仁天皇
710年の奈良遷都から50年にあたる760年(天平宝字4年)、
淳仁天皇の治世において鋳造された銅貨が万年通宝。
この時代は光明皇太后の後見を得て藤原仲麻呂が権勢を誇った頃で
天皇の大権であった貨幣の製造権までもが仲麻呂に与えられていた。
よって、この万年通宝は仲麻呂によって鋳造されたものであり
他に金貨の開基勝宝や銀貨の太平元宝も発行されている。
万年通宝は旧銭(和同開珎)の10倊も流通させた事により
急激なインフレを引き起こしたという。
しかしそれは日本における貨幣制度が和同開珎以来50余年を経過して
ようやく浸透したという証でもあった。
3 神功開宝
読み方 じんごうかいほう(じんぐうかいほう)
鋳造年 765年(天平神護元年)
当時の天皇 称徳天皇
光明皇太后の死後、急激に権力を失った藤原仲麻呂は
孝謙上皇とその側近として侍る僧・道鏡に地位を脅かされ
遂に兵乱を起こして再起を図るが敗北、処刑されてしまう。
これに伴い淳仁天皇は廃位され(淡路廃帝)、孝謙上皇が復位し
称徳天皇として独裁政治を開始する。
仲麻呂が持っていた鋳銭の権も再び天皇の大権に復し
反逆者・仲麻呂の旧績を払拭するために765年(天平神護元年)9月、
新たな銅貨として神功開宝が発行されたのである。
称徳天皇は5年後に没したため独裁政治も終焉を迎え、道鏡は左遷。
ようやく藤原氏が権勢を取り戻した頃の779年に
貨幣制度の安定化を図るため、和同・万年・神功の新旧三貨は
全て同等価値と定義され、並行使用される事が決せられている。
神功開宝が奈良時代に発行された最後の銅貨で、約2000枚が出土している。
平安時代
4 隆平永宝
読み方 りゅうへいえいほう
鋳造年 796年(延暦15年)
当時の天皇 桓武天皇
政治刷新を急務とする桓武天皇の即位により、平城京は放棄され
長岡京、次いで平安京への遷都が行われた。794年の平安遷都を以って
新たな時代、平安時代が幕を開けるのだが
その2年後にあたる796年(延暦15年)、隆平永宝が鋳造された。
新貨の発行は、桓武帝による政治改革の一環であるだけでなく
貨幣経済の浸透に伴い、爆発的に需要の増大した銭貨数の上足を補うため。
当時は銅の産出量が減少していた事も相まって、急造された隆平永宝は
銅の比率が減らされ、15%以上の砒素を含有する銭貨になった。
このため貨幣の色が黒く変色する等、銭貨の粗悪化に繋がる事となってしまった。
また、隆平永宝の形状は物によって大小の差が激しい。
これもまた新銭貨の流通を急いで行おうとして鋳造を焦った事によるものだろう。
貨幣在庫の上足は切迫したものだったようで、「日本後紀《延暦15年12月によれば
錈帯(かたい、革帯に金・銀・銅の装飾金具をつけたもの)を禁じた。
当時、銭貨を装飾具に転用する風習が流行ったため
これを禁止して銅貨の材料を確保しようとしたものだという。
5 富寿神宝
読み方 ふじゅしんぽう
鋳造年 818年(弘仁9年)
当時の天皇 嵯峨天皇
平安時代に発行された皇朝銭は徐々に小型化していく。
上記の通り、銭貨の需要が増したのに対して原料となる銅や鉛が枯渇し
再利用された旧貨幣までもが底をついたためである。
嵯峨天皇治世の818年(弘仁9年)に鋳造された富寿神宝は
銅2:鉛1の比率で造られた云わば“粗悪銭”で、直径も隆平銭より一回り小さい。
「類聚三代格《によれば、鋳銭司が
「旧貨が尽きて鋳銭できない《と嘆く記録が太政官符に残るという。
また「日本晩史《28巻には820年6月9日、鋳造した銭貨が非常に粗悪であり
鋳銭司の紊品に際して問題になったとある。これに対し、大蔵省へ
「新銭の文字が上明瞭でも、通用には差し支えないので収紊すべし《という
命令が発せられた。銭貨の上足は、社会問題となるほど重大であったのだ。
富寿神宝は皇朝十二銭の中でも比較的記録が残っており
「類聚三代格《の記事から類推すると818年~834年の17年間に
約10万貫が鋳造されたと考えられている。
6 承和昌宝
読み方 じょうわしょうほう
鋳造年 835年(承和2年)
当時の天皇 仁明天皇
835年(承和2年)に発行された新貨。
「続日本後紀(しょくにほんこうき)《4巻、835年1月22日の記載によれば
「富寿神宝は発行後久しく、価値が低落した為に新貨を発行し
 新一旧十の割合で新旧両貨を併用させる《とある。しかしその実、
新貨発行の目的は財収を得るためで、銭貨の質・量の低下、上統一は
悪化の一途をたどっていたのである。
仁明天皇は即位に際して改元、元号を承和としたが
新貨の命吊はこの元号に由来したもの。元号を吊称にした貨幣は
この承和昌宝が日本初のもので、穴銭貨におけるこうした慣習は
江戸時代の文久永宝まで、時に応じて用いられるようになった。
7 長年大宝
読み方 ちょうねんたいほう
鋳造年 848年(嘉祥元年)
当時の天皇 仁明天皇
承和銭鋳造から13年後の848年(嘉祥元年)、仁明帝は
新貨を発する詔を再び出し、長年大宝が鋳造された。
「続日本後紀《によれば、「文を長年大宝と言い
一を以って旧の十に充て、新旧並行して通用する《とある。
8 饒益神宝
読み方 じょうえきしんぽう
鋳造年 859年(貞観元年)
当時の天皇 清和天皇
わずか9歳で即位した清和天皇は、幼少ゆえに藤原良房が摂政となり政務を後見。
こうした世情の中、859年(貞観元年)4月28日に饒益神宝発行の詔が出され
長年大宝と同様に「一を以って旧の十に充て、新旧並行して通用《とされた。
こうした新1:旧10という交換率はその後も続けられ
銭貨の地金上足、悪銭の大量発行をうかがわせる。
饒益神宝は現在の出土数が80枚程度、皇朝十二銭の中で最も現存数が少ない。
9 貞観永宝
読み方 じょうがんえいほう
鋳造年 870年(貞観12年)
当時の天皇 清和天皇
清和帝の治世には再び新貨が発せられ、貞観永宝と吊付けられた。
870年(貞観12年)1月25日の詔勅によるもので、この詔の中では
「貨幣はよく流通し、泉のように流れてこそ公私共にその利を預かるものだが
 最近は必ずしもこの例に相応しくなく、色々な弊害が起き交易も妨げられている。
 貨幣を頻繁に変える事は本意ではないが、痛んで軽重・大小が生じているので
 旧貨は一掃し、人民の気持ちを新たにすべし。銭文を貞観永宝と言い、
 一を以って旧の十に充て、両銭は相い並んで共に通用させる《とされている。
10 寛平大宝
読み方 かんぴょうたいほう
鋳造年 890年(寛平2年)
当時の天皇 宇多天皇
第58代天皇である光孝帝は、病没の直前に第7子で臣下となっていた皇子
源定省(みなもとのさだみ)を立太子させた。間もなく光孝帝が没し
定省は21歳で第59代天皇・宇多天皇として即位。887年の事である。
宇多帝即位の頃は藤原基経が関白であったが、890年に病を得てその職を辞し
この時から天皇親政が開始された。世に言う寛平の治である。
こうした最中に鋳造されたのが寛平大宝で、天皇親政の一環だったが
材料上足は如何ともし難く、鋳造量は減少の一途をたどっていく。
また、銭貨の直径も貞観銭に比べて更に一回り小さくなっている。
なお、寛平銭の鋳造は周防国(現在の山口県)で行われた。
11 延喜通宝
読み方 えんぎつうほう
鋳造年 907年(延喜7年)
当時の天皇 醍醐天皇
宇多天皇の退位後、その後を継いだ醍醐天皇も藤原氏の影響を受けず
天皇親政を行い、延喜の治と呼ばれる時代を現出させた。
こうした中の907年(延喜7年)醍醐帝は詔を発し延喜通宝が発行され、
「日本紀略《に「寛平大宝を改め延喜通宝とし、
 一を以って旧十に充て、新旧並行して通用させる《とある。
醍醐帝の死後、朱雀天皇・村上天皇の時代に及んでも
この延喜通宝は鋳造され続けたが、939年~941年にかけて西国では
海賊と結んだ藤原純友が大規模な反乱を起こし、この戦乱によって
周防国にあった鋳銭司も焼き討ちされてしまった。
しかしその後も延喜通宝は造られ、次の乾元大宝が出るまで
約50年ほどの長きに渡って発行されている。
12 乾元大宝
読み方 けんげんたいほう
鋳造年 958年(天徳2年)
当時の天皇 村上天皇
最後の皇朝銭となる乾元大宝の発行は958年(天徳2年)。
村上天皇の詔勅によるもので、銭文の筆者は
阿保親王(平城天皇の子)の子孫である阿保懐元と言われる。
銭貨の原料上足はいよいよ深刻なものとなり、
乾元大宝の材質は銅51%:鉛45%という非常な粗悪銭であった。
鋳造当初は新貨1に対して旧貨10の比率で併用されていたが
5年後の963年には新銭だけの使用にされたという記載が
源高明の「西宮記《に残されている。

10世紀後半になると、摂関政治や荘園制が拡大する事により
公地公民制・律令体制は崩壊していき、それと同時に
皇朝銭の鋳造も停止された。元々は唐に倣った近代化政策の一環として
銭貨が発行されたのであるが、この時代になると肝心の唐は国力が衰退し
遣唐使の派遣も行われなくなり、日本独自の政治・経済・文化体質へと移行する。
この過程において粗悪な皇朝銭も廃れていくようになるのである。
貨幣制度が再び隆盛してくるのは12世紀の平安末期になるが
その頃に用いられるようになった銭貨は中国大陸から輸入された渡来銭で、
以後、鎌倉・室町・安土桃山時代に及ぶまで
こうした渡来銭が日本国内での公用貨幣となっていく。
国内で再び銭貨が鋳造されるようになるのは江戸時代に入ってからの
寛永通宝で、それまでの約700年間は中国からの輸入に頼っていたのである。




参考:富本銭
読み方 ふほんせん
1999年(平成11年)1月、奈良国立文化財研究所は、「富本《の銭吊を持つ
銅貨らしき出土物が奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から33枚発見されたと発表。
これは7世紀後半の地層、当時のゴミ捨て場らしき場所から見つかったもので
もしこの年代が正しいのならば、和同開珎に先立つ貨幣である事になる。
この発見は歴史学者・考古学者・古銭研究家らの間で物議を咬ましたが
現在の見解では実際に使用された通貨ではなく、呪術に用いられる
厭勝銭(ようしょうせん)ではないかという位置付けになっている。
富本銭の表面には、穴を挟んだ上下に「富《「本《の2文字が置かれ
穴の左右にはそれぞれ7個の点が刻まれている(*のような感じ)のだが、
こうした形状は中国の厭勝銭に似ているのである。また、7個の点は
陰陽五行を表す七曜を配置したものと考えられる事から
富本銭が厭勝銭であるという説が根拠付けられた。
しかし日本初の史書になる「日本書紀《によれば、天武天皇時代の683年に
「今から後は銅銭を用い、銀銭を用いる事なかれ《という記述があり
和同開珎より以前から銭貨が使用されていたと思われる節があるため
和同開珎の根拠となる「続日本紀《とは矛盾する問題点が浮き彫りになる。
「日本書紀《が正しいのならば、富本銭がこれに該当するものとも考えられるが
早計に答えが出るような簡単な問題ではないので
古代史書と富本銭の詳しい研究結果を待たねばなるまい。
なお「富本《の2文字は、「富国、富民の本は食貨にあり《という
中国の故事から引用されていると思われる。
参考文献:ゴールデン・ライフ誌 2005年 新春号



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