越後国 福島城

福島城址碑

所在地:新潟県上越市港町・川原町・春日新田
■■■■■■■■■佐内町・頸城区西福島

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★■■■■
公園整備度:☆■■■■



越後国、しかも上越市の名城と言うならば上杉謙信の居城として名高い春日山城を思い浮かべる方が多かろう。しかし
上杉家が豊臣政権によって会津へ国替えとなり、1598年(慶長3年)4月に新たな太守として入府した堀左衛門督秀治は
堀家30万石の首府として、また新時代の統治拠点としては険峻な山城である春日山城は不便であると判断し、平城を
築く事を計画する。着工の時期は定かでないようだが、恐らくは関ヶ原合戦(1600年(慶長5年))の直後と考えられており
完成したのは1607年(慶長12年)の事だった。その頃になると既に秀治は没しており(1606年(慶長11年)5月26日死去)
嫡男・忠俊の代になっていた。
“これぞ山城”と言う山岳城砦の春日山城とは対極的に、越後福島城は“究極の平城”のような城だ。現在の上越市立
古城小学校の敷地が本丸とされ、その周りをぐるりと二ノ丸が取り囲み、更にその周囲には広大な外郭を構えていた
輪郭式の縄張。平城は周辺にどこまでも縄張を広げていけるのが利点だが、まさに福島城はそうした造りとなっており
外郭の端縁、総構えとなる位置は北に日本海・東〜南〜西は全て川が取り囲む“水城”としての防御力も備えていた。
現状、古城小学校の南には保倉(ほくら)川が流れ、それは西を流れる関川に合流し、すぐ北の直江津港へ流出する
のみであるが、往時は保倉川が城の東を蛇行して流れ、関川は西にあり、城は2つの川に東西を挟まれる形となって
いた。更に城地を貫通する関川の支流・小町川や人工的に掘削されたいくつもの水路(堀)が縦横無尽に走っていて
まるで「水の迷路」といった具合の構造だったようだ。こうした敷地の中に旧奥州街道が引込まれ、陸路も通じる形に
なっていたが、これまた城の曲輪はいずれも細かく沢山の横矢を掛ける雁行となっている為、陸上経路も城の防御に
有効な地点へ誘引できるようになっており申した。本丸内には天守相当の三重櫓が1基、二重櫓が5基もあったらしく、
「強力な火点で周囲を制圧射撃できる」織豊系城郭だった訳だ。さすがは秀吉に褒め称えられた“名人久太郎”こと
堀家の面目躍如と言った所か。言わずもがな、当時の直江津湊を押さえる立地は船舶交通の利潤を掌握し、また
南へは城下町を無限に広げていける訳で、近世城郭として必須の政治・経済的機能性も兼ね備えてござった。
ところが堀家は忠俊の代に御家騒動を起こし、徳川幕府から改易の処分を受けてしまう。1610年(慶長15年)堀忠俊は
所領没収、陸奥国磐城平藩(福島県いわき市)へ預けられた。忠俊に代わり福島城主となったのは松平左近衛権少将
忠輝、徳川家康の6男にして伊達政宗の娘・五郎八(いろは)姫の夫である。忠輝はそれまでの所領である信濃川中島
(長野県長野市)14万石に加えて30万石を与えられ、合計にして約45万石という大封を有する事になった。新たな統治
拠点として福島城へ移り住んだ忠輝であったが、いくつもの大河の河口に築かれた福島城は実のところ洪水が多発、
その被害に悩まされていた。また、すぐ裏を日本海の荒波が打ち寄せる事もあり、「波の音が五月蝿くて眠れない」と
忠輝が不満を唱えたとか、諸説を理由として新城への移転を訴えるようになる。生来剛毅な暴れん坊として知られた
忠輝をして「波がイヤ」とは軟弱な話であるが(水に対するトラウマでもあったのか?)むしろ、豊臣恩顧である堀家が
造った城が宛がわれるのを良しとせず、どうしても「オレ様用の城が欲しい!」というなりふり構わぬ彼のわがままが
このように稚拙な言い訳を発するに至ったのか…(あくまでも個人的な想像であるがw)。ともあれ、豊臣系大名たる
堀家を幕府が体良く取り潰したかったのは事実であろうし、その旧跡である福島城を破却し新しい城を作れば、徳川
一門である松平忠輝の(ひいては幕府の)威光を高める事になろう(これは大坂の陣以降の大坂城と同様)。
斯くして、福島城よりは内陸に、春日山城よりは平地となる位置に、改めて新しい城の構築が開始される。これが
高田城(下記)となる訳だが、その新城が完成するや否や忠輝は居を移し福島城は廃城となり申した。時に1614年
(慶長19年)の事で、福島城は越後首府の大城郭として築かれながら僅か7年で廃絶する短命な城となった。
福島城下は町ごと高田へと移転させられ、いつしか城跡は埋もれていった。さらに近代に於いては工業団地の造成や
直江津港の大規模改修などが行われ、加えて河川の流路整理もあって、現状では城跡を示す遺構は何も残らない。
(古写真を見ると、昭和の高度成長期あたりまでは堀跡や枡形の形状が残存していたようではあるが)
1967年(昭和42年)から部分的に福島城跡の発掘調査が行われ、石垣の古材や陶磁器片などが出土したものの、
城の全体像を明かすような発見には至っていない。古城小学校の敷地内に資料館が設置されており、出土品や
案内板などが展示されているので、それを見学するのが城の名残を感じる僅かながらの方法でござろう。写真の
石碑も小学校の敷地の中にある。この石碑の土台になっている石が、出土した石垣の古材なんだとか…。


現存する遺構

土塁・郭群








越後国 高田城

高田城復元三重櫓

所在地:新潟県上越市本城町・東城町・西城町
■■■■■■■■■*南城町・北城町・大手町

■■駐車場:  あり■■
■■御手洗:  あり■■

遺構保存度:★★★☆
公園整備度:★★★☆



上記の経緯により松平忠輝が築いた城。1614年3月15日に着工した。これは諸国の大名に賦役を課す「天下普請」で
行われ、普請の総裁には忠輝の舅である伊達陸奥守政宗が任命され申した。政庁としての城郭を意識し、福島城と
同様な平城を築城すると同時に、諸大名へ負担をかけて豊臣派勢力を削ぐ徳川幕府の戦略である。上杉景勝・前田
利常・最上家親など13家の大藩に賦役を任じた結果もあり、竣工までわずか4ヶ月。同年7月上旬に驚異的な早さで
完成したのが高田城である。高田平野の中で菩提ヶ原と呼ばれた場所に位置し、傍を流れる関川の蛇行を利用して
外堀としている縄張り。総土塁作りで石垣はなく天守も建てられなかったが、本丸南西隅に二重の大櫓(築城当初)を
揚げて天守代用とした。石垣を用いなかったのは、工期を短縮するため、土地柄から石材の調達が難しかったから、
慶長後期の時代背景から大砲戦を考慮した(被弾した際に石垣では破砕片で却って被害が大きくなる)、そもそも
河川流路の軟弱地盤なので石垣の重さを支えられないからなど、様々に考えられている。どれが正解なのか…と
言うよりは、どれも正解なのではないだろうか?
現在、上越教育大附属中学校のある敷地が本丸跡。東西220m弱×南北260m程の方形をした空間で、東・南・北に
外枡形虎口が出張っており、その場所の分だけ形が複雑になっている。大手は南側虎口だ。この本丸を全周で囲む
二ノ丸は、関川の削り残した敷地をそのまま活用した形状で、丸みを帯びた四角形といった感じ。二ノ丸の外周縁は
塀で囲われ、要所要所に塁壁を構えて阻害とし、侵入者を足止するようになっている。北東と南西の隅部が外部へ
通じる虎口となっていた。このうち、南西側へ通じるのが三ノ丸(陽戦曲輪)だが、その内部は東側の細長い部分と
南西側の大きな敷地、大きく2つに分けられている。西端部が大手口で、そのすぐ内側が藩政の役場となっていた。
三ノ丸もまた、関川の蛇行部分を上手く使っていた形状で、現在は突先部分が野球場となっており旧来の地形を
そのまま残す。この野球場部分は旧来、稲荷社が建立され城内鎮守となっていた場所でござる。他方、二ノ丸の
北東側出口は馬出曲輪としての役割を持つ狐丸が置かれ、その更に東に同様の形状・機能を持つ出丸が並ぶ。
狐丸と出丸は“重ね馬出”のような立地にあり、搦手側の防備も鉄壁であった。
現状では城の東半分に相当する部分の濠は埋め立てられてしまったものの、関川の流路を活用したこの水堀は
場所によっては100mもの幅を有し、鉄砲戦を考慮した設計だったと言える。福島城はいくつもの川と日本海を使い
城を取り囲み、防御を固めたつもりが結果として洪水の難を呼び込んでしまったが、高田城は関川1本の蛇行部
のみで同じような守りを作り上げ、同時に排水暗渠なども整備し水害対策としている。この他、外郭部まで含めると
広大な敷地で城を纏め(平城の妙である)、総構えの水堀跡は現在の青田川などに見る事ができる。
さて、越後少将忠輝は大坂夏の陣で遅参、しかも将軍・秀忠の旗本を切り捨てる事件まで起こしてしまう。予てから
素行に問題のあった忠輝に対して父・家康と兄・秀忠は厳しい処分を下し、1616年(元和2年)7月6日に改易された。
所領を失った忠輝は流罪。代わって高田城主となったのは酒井宮内大輔家次、上野国高崎(群馬県高崎市)から
移封、“徳川四天王”の1人・酒井左衛門尉忠次の長男である。石高は10万石。家次は程なく死去、嫡男・宮内大輔
忠勝が後継となるも、直後の1619年(元和5年)3月に信濃国松代(長野県長野市)10万石へと移された。交代で
松代12万石の松平(越前松平家)伊予守忠昌が25万石に加増されて高田城主になる。しかし忠昌も本家である
越前福井藩(福井県福井市)50万石の相続により1623年(元和9年)福井へ移動。翌1624年(寛永元年)4月15日
忠昌の甥(兄・松平越前守忠直の子)・光長(みつなが)が高田藩を立てる事になり、25万9000石を以って城主と
なった。この光長の時代、1665年(寛文5年)12月27日に高田を襲う大規模地震が発生し城内各所に大損害を被り
2人の家老や家臣領民多数が亡くなっている。その復興に伴い、本丸の二重櫓が三重櫓に改められた。光長は
他にも領内の治水整備などを行って石高を増やすなど治世には卓越した手腕を振るったものの、対外的には本家
福井藩への過干渉を行うなどして幕府から睨まれ、更には自身の後継者問題で御家騒動(越後騒動)を起こして
1681年(天和元年)6月26日、改易処分を食らう。忠輝に続いて光長も改易された事で、高田藩主の座はこれ以後
問題を起こした大名の懲罰人事として処遇される受け皿のような扱いとなってしまう。
暫くは幕府の番城となっていた高田城でござるが、1685年(貞享2年)12月11日に小田原藩(神奈川県小田原市)主
10万2000石であった稲葉丹後守正通(まさみち)が転封されて来る。これは正通が京都所司代を免職された事に
伴う懲罰人事と見られるが、彼も高田領内の新田開発に勤しんだ事で後に老中へ昇進、1701年(元禄16年)6月に
下総国佐倉(千葉県佐倉市)へ移る。入れ替りに佐倉から戸田能登守忠真(ただざね)が6万7000石で高田城主と
なるも(これも当時の将軍・徳川綱吉の不興を買っての事らしい)、1710年(宝永7年)閏8月15日に下野国宇都宮
(栃木県宇都宮市)7万石へ再移封。続いては伊勢国桑名(三重県桑名市)11万3000石から久松松平越中守定重
(さだしげ)が入封。前任地の桑名に於いて家臣の統制にしくじり、やはり懲罰としての高田移封とされ申した。
定重の後は因幡守定逵(さだみち)が継ぎ、以後は日向守定輝(さだてる)―越中守定儀(さだのり)―越中守定賢
(さだよし)と続くが1741年(寛保元年)11月1日に陸奥国白河(福島県白河市)へと移される。
その後は播磨国姫路(兵庫県姫路市)15万石の榊原政純(まさずみ)が入封する。父・式部大輔政岑(まさみね)が
不行状を咎められ隠居させられ、しかもこの時に政純はまだ7歳。当然、藩政を看る事など出来る訳もなく、西国の
重要拠点である姫路城主の任に能わずとしての左遷転封であった。更に間が悪く、政純は1744年(延享元年)12月
11日、10歳で夭折。跡継ぎなどもいる筈がなく、名門・榊原家断絶の危機に陥った。この為、弟の右京大夫政永
(まさなが)が「政純の身代わりとして」後継者に据えられる。即ち、公式記録上では政純と政永は同一人物な訳だ。
何とか難局を乗り越え、榊原家は式部大輔政敦(まさあつ)―遠江守政令(まさのり)―右京大夫政養(まさきよ)
式部大輔政愛(まさちか)―式部大輔政敬(まさたか)と続いて明治維新を迎える。榊原期には1751年(宝暦元年)
4月26日の大地震、1802年(享和2年)火災で高田城本丸御殿が焼失、1847年(弘化4年)3月24日の善光寺地震と
5日後の誘発地震にて城が大破、といういくつもの災害が発生し藩財政は困窮していた。版籍奉還の翌年である
1870年(明治3年)にも火災が発生して三重櫓や御殿などを失い、1873年(明治6年)1月14日の廃城令では存城と
されたものの実質的な城の機能は喪失していた。残存していた城内諸建築も悉く破却、陸軍第13師団が城跡に
入渠した後には多くの土塁も切り崩され、堀も埋め立てられている。尤も、陸軍は桜の植樹も行っており、今では
高田城址が“日本三大夜桜”の1つに数えられる名所となってござる。
数々の苦難を乗り越えてきた高田城であるが、それでも城地の基本的縄張は残されている。これにより、1954年
(昭和29年)2月10日に城址は新潟県の史跡に指定。平成に入ると城郭復元の機運が高まり、上越市発足20周年
記念事業として、焼亡した三重櫓を1993年(平成5年)に復興している。鉄筋造りではあるが、建築史の第一人者
故・内藤昌(あきら)名古屋工業大学名誉教授の監修によって、外観を松平光長期の「本丸御殿絵図」の如く、
規模を稲葉正通時代の「高田城図間尺」にある数値とほぼ同じくして建てられた再建三重櫓(写真)は、当時の
金額にして7億5000万円の費用がかけられたそうな。柱や長押・窓枠などを白木造りにしつつ、漆喰の塗り籠めも
兼用した容姿は気品と重厚さを持った建物である。不思議と土塁と馴染む風貌にして、四季折々に楽しめる様は
高田城の象徴と言うに相応しい存在でござろう。この他、1908年(明治41年)に陸軍が埋め立ててしまった本丸
南側虎口部分の濠を再現、高田公園(現在は高田城址公園と改称)開園50周年記念として2002年(平成14年)
極楽橋を再建している。この工事の際、発掘調査が行われ旧来あった極楽橋の木杭などが確認され申した。
2017年(平成29年)4月6日には財団法人日本城郭協会から続日本100名城に選定されている。
別名で鮫ヶ城・関城・高陽城。地元では鮫ヶ城と呼ばれる事が多いそうだ。
上越市を訪れた際は是非とも御覧あれ!


現存する遺構

堀・土塁・郭群等
城域内は県指定史跡




春日山城・御館  新発田城